Title : ごめんネ、おチビちゃん
多かれ少なかれ、こう考えてみたことはないだろうか。何故、近年になり突如として精神に著しく不調をきたす人が増えたのかと。
単純明快な理由によるところがほとんどだろう。
寄り添い人の不在、或いは消滅。付き添い人の不在、或いは消滅。
日本に於いて付き添い人という言葉は大抵病院などで使用される。患者に付き添う人、という意味だ。ああ、それなら分かる、確かに付き添う人は寄り添う人とも言えるしね、と。
病人は弱者状態にある人だ。本当に社会的弱者なのではなく、病気の度合いに応じ、現時点で弱者状態にある人ということだ。
基本、まだ強者か弱者か判別出来ない状態の人々のことを未成年者と法で定められている。この場合の勝ち負けは特定の事柄を指していない。特定とは、学校の試験だとかスポーツ競技だとか、モテるモテない、イケメンかどうか、のこと。
稚拙な社会が未成年者を大人扱いしタカリを行う場合、世の中を知らない、人生を知らない未成年者達はとんでもない誤解を大真面目にしてしまう。
大人が教えてくれるお手軽美味しいとこどりをゲットすれば、誰より早く入手出来れば勝ち組になれる、と。勝ち組になれなければ人生終わった、なんだと。
だとすれば周りはライバル、全て敵。友達ズラした敵。明らかに弱いと分かるヤツはトドメ (イジメ行為) を刺しとかなきゃな、となる。
ウツ病や類似する心の病が爆発的増殖する理由は付き添い人、寄り添い人の不在、あるいは消滅。これは深刻な人手不足。労働者の事ではない。付き添ってくれる人、寄り添ってくれる人の人手不足。つまり深刻な社会問題。
経済が発展すれば企業は当然、拡大再生産。国家が戦争などに突入すれば縮小再生産。働き盛りがいなくなるからだ。働き盛りは分別ある大人。分別ある大人は社会の舵取り。政治家は厳密に言えば社会の舵取り人ではない。分別ある大人達に選ばれた彼ら彼女らの代行人に過ぎない。
幼稚園、小学校、中学校、高校の先生は監視員。プールの遊泳者を監視、工事現場周辺の通行人を監視、そういった業務と大差ない。付き添い、寄り添いもあるがそれは個人の自由意志、自由裁量、基本的にそんな義務はない。
子供達の絶対的な付き添い人、寄り添い人は家族、友人、同僚。教師は単なる職業のひとつ、聖人君子を期待しても無駄。
付き添い人、寄り添い人は血縁、他人を問わず友人、仲間。
子供をまっとうに育てるのは親の義務。義務は付き添いが監視的意味合いに傾く。義務ではなく愛情をより前面に押し出し寄り添いとすべきで、付き添いと寄り添いの両立は親自身をも成長させる。
病人には付き添い、寄り添い。だって弱者だから。前述の未成年者を大人扱いする社会は未成年者が弱者であることを忘れてしまう。未熟な当の未成年者達も自分達が圧倒的な社会的弱者だという事実を湾曲してしまう。チョット未熟なだけだと甘く考える。
故に、友人や仲間である付き添い人や寄り添い人が居なくても大丈夫、問題ない、何とかなる、などと途方もない認識を持ってしまう。
本人が間違った方向に行かないよう、常に付き添い相手の行動や言動に注視し助言を与えるべき立場の付き添い人、すなわち友人が本当の助言を相手に与えられず、媚を売り嫌われまいと迎合する段階で完全に付き添いや寄り添いは王様を喜ばせる道化師と同等になる。互いが自信を王様だと思い、実際は互いが道化師にすぎない。
TVはお笑い芸人を大集合させ続ける。お笑い芸人は道化師だ。視聴者に媚びることが仕事。怒らせる手法の者も結局は道化師。目立つ作戦に出ているだけ。いずれにせよ相手の荒探し、自虐ネタの失敗談で笑いをとる。それを子供が真似る。当たり前の道徳として。社交辞令として。楽しいかかわり方として。楽しませるお笑いとさげずみの笑いの区別も出来ないままに。突き添う。
親が、家族が、友人らに付き添ってもらえない状態のまま長期間放置されると、社会的弱者の未成年者達は心の成長が停止したまま物理的に成人する。
社会に出ると、今度は付き添いの代わりにつきまといが大勢やって来る。ストーカーや付きまといは犯罪だが、上司の職場命令はつきまといではない。であるはずはない。大人なら当たり前の認識だが、子供には業務命令がイジメと映る。出来ないことをしろと言う。しつこく言ってくる。オレに恨みでもあるのか。ワタシに関心あるんじゃないの?。
どうしていいか分からなくなる。当然だ。自分は自身を大人だと思い込んでいる。しかし実際は幼稚な子供。子供がどんなに大人として生きようと思っても無理な話。アッと言う間にボロが出る。取り繕うテクニックさえなし。
恥をかき、怒り、憤りに震え、遂にはひきこもる。まさに悪循環のドロ沼。付き添いなく寄り添いなく、その事実にさえ気づかず社会人となった。そして今、最後の糸口であるはずの組織という人生道場の人々をツキマトイとみなし遮断した。
付き添う人がいない、と言う。そうかもしれない。だが、無意識に付き添う人を選んでいるだけなのかもしれない。高いハードルを設け、自分に都合のいい付添人を募集する。それは甘やかされたもう一人の自分を欲しがっているだけで、何の発展にも解決にもならない独り芝居。蜃気楼。
幼い頃から、家庭内ではよく喋ったが外では途端に話せなかった。と回想する人が大勢いる。その傾向が酷くなりウツを発症したのだと。それを先天的な病なのだと…。勿論、本当にそうな人もいる。しかし、短絡的に病と片づけられないケースも多く見かける事実は否定出来ない。
例えば、家族の者とは話せたと言うが、どんなふうに、どんな内容の会話が出来たのか。
「腹減った、夕飯何時?」「あと30分くらいかな」「もっと早くならない~?」
といった日常生活の基本的最小限の受け答えだけしか発しないのであれば、これは会話のうちには入らない。
レストランに入りウェイトレスにひとこと「コーヒー」「分かりました」以上。
これを私は彼女と話したことが有る、会話したことが有る、と言えるだろうか。
話をする、会話する、というのは、お互いのことについてどんな意見や考えを持っているのかを交換しあうことなのだ。
家庭内での必要最小限やりとりを会話だと思い込み、友人や知人とも同じ調子でそのように接触する。社会人となった時、初めて
「君はコレ、どう思う。他に代案あるか。眼を通して後で客観的な意見を聞かせてくれ。いいよ、稚拙で。入ったばかりなんだから、素人的見解でいいから」
此処で初めてパニクる。事態が全く飲み込めない。今の発言、一体何なんだ、と。何言ってるかサッパリ理解出来ない。
「お前の赤いガンダムとオレの青いのと交換しろよ」「やだね」「何でだよ」
「オレこれイチオシだからだよ」以上。
これは会話ではない。ただのタメグチというものだ。
「お前の赤いのとオレの青いのと交換しろよ」「やだね」「何でだよ」
「赤いのは燃え上がる感じがするけど青いのは何か暗い感じで負けそうじゃん」
「でも赤いのは海にもぐると目立つじゃん」「あそうか」
つまり、意見交換は当然ながら、お互い見解が違うことが多い。何を話してもほとんど見解が同じだと言う場合、両者には推定、親身に指導してくれるべき付き添い人や寄り添い人が皆無だったと考えて良い。
世の中から付き添い、寄り添いが消えてゆくごとに心に不調を訴える人が増えてゆく。人間は弱い、を知らず敵の人間を次々に排除してゆくゲームに埋没する人もいる。人間は弱い。いずれ思い知らされる。逃避行為はそう長くは続けられないものだ。