清水ミチコのさとうきび畑 / 武道館で聴く反戦歌

Title : 怒りのドラミングに乗れ

 

 

芸人と称する清水ミチコなる人がいて、反戦歌の ♪ さとうきび畑 ♪ を顔歪め熱唱している様子をピアノで弾き語り、観客席から女性達のウケ笑いが聞こえてくる。

YouTube動画のコメント欄にはヤンワリ非難する声が多数、腹は立つが面白い、という声も混じる。

現在の日本が如実に浮かび上がる良いサンプルだが視聴はオススメしない。卑怯な人間のアクセス集めの術中にはまることになる。が、聴いてしまうところがジレンマだろう。

物真似、モノマネ。面白ければ何でも許される寛容な国。歪んだ醜い寛容さ。

日本が、かつて戦争を起こした側の国だという自覚のない清水ミチコが、恥知らずな行為をステージで有頂天歌唱し、戦没者やその関係者のことなど他人事だと思っている観客が面白いと楽しそうにアホーマンスを楽しむ。

核弾頭が落とされ煉獄をさまよう人のうめき声が面白いからといってマネる。死にざまが可哀想だけど面白いといって真似る。それと清水ミチコのさとうきび畑と一体何がどう違うというのだろう。

戦没者のご遺族は当然ご高齢であって、弱者虐待の意味合いも加わる。高齢化社会への上から目線だと言いたげに。

人が打ちのめされ苦しんでるのは面白ェ!。

とは誰も思わないはずです、と歌い手が確信したとしても、反戦の祈りはフザケたお笑いと称するイジメの恥ずべき醜悪楽曲演奏の対象になってはならない。断じて許されない。コンサート会場でウケ笑いする女性達の笑顔を見れば、子供も真似て笑う。ああ、これはアリなのだなと。

森山良子の持ち歌なので、彼女と同じ番組を進行している相方のアタシには

さとうきび畑を茶化す免罪符がある。

と勘違いしているのかもしれないが、森山良子の作詞作曲でもなく、また彼女が道徳や倫理の番人というわけでもない。むしろ、楽曲を茶化すことを許している姿勢は彼女の反戦への祈りがお粗末極まりないものだと立証したことになる。

近年よく日本人が口にする、

私達は一体どこで道を間違えたのか

という言葉。間違えたポイントは星の数ほどあるが、この清水ミチコのアホーマンスも間違いようもなく、そのひとつ。

人の仕草やクセを真似てステージ上でパフォーマンスを行うこと自体は悪い事ではない。問題はマネのテーマだ。

人を貶める、辱めるといった侮辱的行為が、たかがお笑い、たかが芸という名のもとに許されてはならない。

自他共に有する人権を軽んじ裁判制度を大仰にとらえる日本人社会ゆえに許される非人間的行為の是認。日本だからまかり通っているが、先進国なら即座に訴えられている。日本のモラルは今や先進国の水準にない。

清水ミチコのさとうきび畑、いいネがダメネを圧倒的に上回る。つまりはこの記事も、このブログもダメネの評価噴出なのだろう。

ちょっとお遊び、メクジラ立てずに本家と聴き分ければいい、と言う人も居る。物議を醸しだしてこの楽曲を広く広めようとしているんじゃないか、という人もいる。こういった考え方を詭弁といい、偽善という。その論法で

ちょっと同級生からかっただけじゃんかー、傷つき過ぎなんだよー、大げさにしやがってー。

アイツの服のダサさを指摘して皆に広くステキなファッションを推奨しただけだろー。

 

日本では盆栽と聞けば多くの日本人が

老人の余暇

というイメージを持つ。欧州の広範囲にわたり盆栽は精神世界の小宇宙として高く評価され、たしなむ人は圧倒的数を誇る。

日本国内においても盆栽の大家に弟子入りする外国人が俄然多く存在する。

つまり、多くの日本人は日本人の心になど関心はなく、今後は外国の人々がそれを継承してゆくことになるのだと思われる。日本人社会が継承に躍起なのはイジメ行為の結果、テンマツだけだ。

 

何故、さとうきび畑でなければならなかったのか。何故、星の数ほどある楽曲の中から反戦歌でなければならなかったのか。

 

 

ざわわ ざわわ ざわわ

青い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りすぎるだけ

あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった

暑い 日差しの中で