Title : 日本人に力を
世界中、難民の人々が移動する。逃走する。そうして、やって来る。歓迎されないことを百も千も承知で、やって来る。案の定、石つぶて代わりの銃口が鼻先へ向けられる。父親は、母親は、怖さでしがみつく我が子を覆いかぶさるように抱きすくめ、そしてうなだれる。或いは目で訴える。どうか見逃して下さいと。口は開かない。兵士を怒らせるだけだ。ムシケラがオレと話そうと言うのか?。
日本人はその人達よりマシなのだから現状にガマンしろって話か?。
いいや、違う。全く違う。日本人はマシなんかではない。ずっとずっと彼らより低い。逆だ。彼らには選択肢と呼ぶには程遠い選択肢しかなく、私達にはそれがある。有り余るほどあり、その素晴らしさを認識さえしない。( 全ての日本人を指しているわけではない。当たり前の話だが )。
大学生は社会人ではない。その特権こそが、社会を良くするために自分達は一体どうするべきか、を学生同士が徹底討論するために使われるべき貴重な権利なのだ。学生ローンを奨学金制度と平気で呼ぶイカサマ社会に疑いひとつ持たない人間になるためには、誰から何をどうやってどんな風に学べば良いのか、互いに不安を覚えながら勇気をもって質問を相手にぶつけ合う。
空から最初に一滴。水面の波紋はやがてふたつに、みっつに。
波紋は呼応し、やがて幾つもの波紋連鎖は水面を叩く雨によってさざめきへと変貌する。
いつしか春闘は風物詩ではなくなり、ストで通勤電車が止まらないことに安堵する。
昔もそうだ。皆ストが回避されると安堵した。しかし、スト決行となっても、一抹の後ろめたさを感じながらグチッたのだ。
労働者の権利を賭けて組合が雇用者と渡り合っている。泣き寝入りで折れ、自分達の労働力を搾取されるか、それともストに突入して組織に金銭的打撃を与え勝利するか。
ストで通勤手段が絶たれ困ったと、確かに昔も言った。しかし、怒りはスト決行者たちには向けられなかった。
お互い様。
おもてなしという言葉より遥かに美しい日本人の美徳だ。
私を助けて下さい。私もあなたを助けます。忘れません。いつか必ず。
見知らぬ誰かと約束する。一度も会ったことのない誰かと約束する。ソーシャル・リンクで交信したこともない誰かと約束する。
自己責任?。そんなの当たり前だ。大人なら。
今、使われている自己責任の意味は、
係わってくんなよ。関係ないんだからなアンタとオレは。ちょっとでも面倒かけたら承知しないぞ。残念な奴だと言われたくないだろ。
つまり、現在使用中の自己責任という言葉は、
自己を任意で責めなさい、という意味だ。
大人なんだから、一人前なんだから、他人に頼るな当てにするな、は正しい。他力を一切期待するな、こっちだって一杯一杯なんだから、に間違いはない。
ボランティアの人々は真逆。
皆にボランティアに参加して欲しい、と言いたいのではない。
選択肢の無い人生、生き方、処世術をいつから身に付けましたか、と問いたいだけだ。
美味しいとこ取り。合理的な言動こそ楽。負担なし。便利。快適。
どんなに頑張っても世の中なんて変わらない。そうそう、変わらない。
選択肢があるのに都合よく無いことにして、世の中どうせ変わらんだろ、と言う。
一番ベストな選択肢を選びガンばったがダメだった。ほらな。結局はどうせ変わらんだろ、オレの運。人生。世の中。オレと係わる世間。
就職か奨学金で進学か。オレはちゃんと選択したぞ。私も複数企業からベストなものを選択して就職したヨ。やめちゃったけどネ。
そういう選択肢は日常有りまくる。みんな選択しまくっている。こっちの福袋とあっちのとドッチをワシ掴むべきか?!、と瞬時に判断している。
皆、日々選択している。決められた僅かな物の中から最良と思える物を選択している。キチンと出来ている。
選択肢BOXに無数の肢を入れるのは自分であって第三者ではない。もうこれまでに入れ続けてきたから、もう新しいのは入れない。オレという人間のヒナ型は決まった。これがオレ流、自分らしさ、だと満足気に頷く。
だとすれば、自分で幾つもの選択肢を考え実戦するということは、自分らしさの形成、あるべき自分の理想像の建設、ということになってしまう。
そんな素晴らしい事を何故やめる必要があるのだろうか。
皆が〇〇を持っている。だから自分も取り合えずソレを買う。ネットで調べてベストなものを選択した。
それは選択肢からの選択ではない。ただ、選んだだけ。
選択肢と選ぶは違う。
皆が持ってるからお前も買え。でないと話合わない。置いてかれるぞ。
と言われて買っただけ。相手に選ばされただけ。もっと言えば、任意強制され従っただけで、自分の選択肢など何処にもない。店に言ってネットで選んだものを買いに行っただけ。既製品の限られた製品の中から選ばされただけだ。
もちろん、全然それ自体悪くない。協調性も大事、資本主義社会での消費者たるも重要な役割。そんなことが言いたいのではない。
スマホを買い仲間外れにされず、共通の話題にツーカーで答えては笑い合い絆を確認すれば問題なし。問題はその先だ。
スマホという文明の利器オンリーとなる。
スマホがあるのでラブレターを書くなど有り得ない。笑い者になる。第一、メールだのSNSだの電話だの出来るのに便箋に封筒に…有り得ない。
スマホ持ってる意味がない。モッタイナイ。
つまりは選択肢を排除してしまった。都合のいい選択肢だけを残したのだ。
ある取引先の地方営業マンが、突然職場に来訪した取引相手に驚く。
「アレエーッー!!。さっきメールしたじゃないですかーッ!!。なんでまたワザワザ来たんですか、新幹線?、飛行機?」
アンタの顔がみたくてさ。
流石は人たらし、秀吉のマネかね。などと世間の大人は一筋縄ではいかない。いかないが、一度も来なかったAと何度も来たBとでは重みが全く違ってくる。それでも一度も来なかったAの方を条件が良いからと採用する場合も多々ある。
何度も経費を使って足を運ぶという決断をしたB。バカをみた、という選択肢を自分に与えるのか。社会勉強になったという答えを自分に与えるのか。
今回のは仕事上の単なる顔見せ作戦だったのか、或いはオレって人恋しい人間なのか。再び今回Aを選んだあの人と仕事で係る時、オレどうするのか。
また通うのか。もう 電話 だけで済ますの か
どちらの選択肢か。流石に二度目はこっちを選んでくれるはず、で通うのか。
実はこの時、ある重大な選択をしている。
あなたは一体どんな人間になりたいのか。
どんな恋人になりたいのか。
どんな父親になりたいのか。
どんな他人になりたいのか。
どんな日本人になりたいのか。
行き当たりばったり。面白くないから次からはこうでああで。得な方をいつも。臨機応変。
だってそれが大人。みんなそうだ。
社会は荒れてゆく。それが嫌だと、みんな言う。口を揃える。一体いつからこうなったのか。
だって、それが時代。それが大人。疑う余地はない。
皆、おびただしい無数の選択肢を葬り、或いは存在さえ気づかず、または毎回選択肢を選んでいるつもりで、
自分自身の可能性を折る選択をし、大人になった。
通常、押しも押されぬ大人になると、人は自分の選択肢シリーズを変えようとしなくなる。出来上がったボードこそが自分らしさと考え、余程の不都合が生じない限り、そのシリーズに安穏とする。
選択肢は日々バージョンアップさせるべきものだ。それが成長を続ける大人の使命でもある。
大幅に手持ちの選択肢シリーズを変更すれば、上書きすれば現世に居ながらにして “ 生まれ変わり ” も夢ではない。
自分を変えたい、と思う人は手持ちの選択の仕方、それを変えることだ。
怒った時、思わず「もういいッ!」が選択肢なら、
「どうしろっていうんだよ。言ってみてくんないかな」などと唇をムウムウと震わせながらも新たなるチャレンジの言葉を投げかける、とか。自分が新たな選択肢を使用すると同時に、相手の選択肢も聞き出す一挙両得作戦。
自分で選択肢一覧を作成し実行する。一番重要な選択肢、それはどれが一番効果的か、より、どれが一番自分らしいか、より、出来るだけ色々、沢山試せる選択肢、が一番合理的。遠回りしている様に思えるかもしれないが、何度でも実験する、試みる、試す。それらは事あるごとに修正を余儀なくされることだろう。
実験なんてたかだか2~3年、その僅かな時間が的確で正確な選択肢一覧を生む。そして恐らくその選択肢は、自分らしさは、
オリジナルで美しい。
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新年にふさわしくない記事…。すいません、コレ、こういうブログなんで…。