身体の痛みと心の痛み / 私は泣かない / 寄り添う人になる方法

Title : コダワリ

 

 

「私は誓う!。どんなに悲しくても二度と涙を流さないと!」

などというセリフ、おそらく聞いたことのない人がいないほど、ドラマや映画ではキーワード。しかしながら、

「私は誓う!どんなに恐ろしくても二度とオシッコをチビッたりしないと!」というのはほとんど聞いたことがない。

恐ろしいモノ体験といえば、キモダメシ(肝試し)にお化け屋敷。自分が恐怖を目の前にしても平気で居られるよう、心構えを強く抱いて(いだいて)屋敷にはいる人はまず居ない。

何故なら、怖がるのが楽しい、それがお化け屋敷だから。

にしても、恐怖というものは自分の意志で抑え込むことが出来る感情なのだろうか。

デビュー戦にのぞむボクサーは恐怖で全身が硬直するという。百戦錬磨になると恐怖もさほど感じなくなる、と聞く。つまりは慣れた。克服した。

 

人が肉体的に痛みを感じるのは、自分自身の身を守るために肉体が創り出したシステム。

激熱のヤカンに触った瞬間「アジャァーッ !!」と叫んで手を離す。痛みを感じて手を離したからこそ大ヤケドには至らない。

つまり、肉体が痛みを全く感じなくなったら大変なことになってしまう、ということ。

全身麻酔がこれに当たる。切り刻まれても気が付かない。痛みゼロの手術は正当だが、激痛バロメーターが機能しない戦士は間違いなく短命だろう。

肉体と違い、心の痛みには、かなりの個人差がある。

出産を経験する前提で作られている女性の身体は男性のソレより痛みに強い、などと肉体の痛み感度も性別差まであるが、

心の痛みは個人差が激しい。

失恋して自暴自棄になったり、果ては命を絶ったりする人もいれば、ケロッとしている人もいる。

平気な顔してるのは本気で好きじゃなかったからだろう。と言われたりするが、本人は本気だったと力説したりする。誰も信じないが。

初めて犯罪を犯そうと決め実行する直前、強烈な恐怖を感じる。それが普通。回数を重ねると感じなくなる。人間は慣れる様に出来ているからだ。経験、学習で脳がその行為に慣れる。慣れてしまう。

こんなことに慣れてしまっていいのだろうか?。

と私達は首をかしげる。

肉体的、精神的、に痛みを感じなくなる。苦痛を感じなくなる。

想像すると素晴らしく楽だろうと思える。

苦しくない、怖くない、痛くない、恐ろしくない。のだから。

 

例えば、悪質なウィルス系の風邪をひく。身体が異常な熱を体外に発散して、体を冷やそうと汗をかく。大汗かいて熱を冷ます。猛暑日、犬は舌を出しっ放しにして熱を体外に発散する。

悲しみの涙、嬉しさの涙、感動の涙。このシズクは一体何を発散しているというのだろうか。

暖かい心の人。という言葉が在る。冷たい心の人。という言葉もある。

心にも平常温度という規定があるのだろうか。

であるならば、感情を揺さぶられて流す涙は、

心の熱を発散しているのか。

体温計は在るが、心温計はない。

物理的な心温計はないが、人の心のヌクモリは、それに触れた人が感じるものだ。

 

私は泣かないと誓う。

一見、正しいように聞こえるが果たしてそうだろうか。

すぐ泣かない。恐がらない。傷つかない。落ち込まない。メゲない。それは、確かに強い人と言える。いい意味でも悪い意味でもリーダーになれる人だろう。

多くの野球の監督が口を揃えて言う。

「一番許せないのは、バットを一度も振らずに見逃し三振すること」

 

社会が、世間が、それが怖いから外出せずに引きこもる。恐い思いをしたくないからストーリーのラストをあらかじめ聞いておく。

自分をおびやかす自分の感情から徹底的に逃れ、それを極力出さないように努める。心の逃避と言えるし、心の否定とも言えるし、それが最善の対処法である場合もある。

泣いたことのない人は、泣く人の気持ちが分からない。頭では理解出来ても、痛みを切々と感じることが出来ない。

大したことない、とその人に告げるのか、寄り添おうとするのか。

 

寄り添う。

 

お金儲けのことだけで頭は一杯、会場変えると言われ大慌て、時間変更しますと今頃言い出す。他人の痛みや苦しさを我が身のように感じられない政治家は一体どんな舵取りをするのだろう。

そして一方、

 

日本の太陽は粛々と繰り返す。

 

寄り添う。