冬のサナトリウム / あがた森魚 / 呼吸困難の苦しさ / イジメの苦しさ

Title 冷たい心の風景

 

 

 

ほんの少しだけれど 陽が射し始めた

雪明かり 誘蛾灯 誰が来るもんか  独人(ひとり)

 

荒野(あれの)から 山径(やまみち)へ 出会いは 幻

弄びし 夏もや  何が見えたんだろか   抱擁て(だいて)

 

十九歳 十月 窓から 旅立ち

壁で ザビエルも ベッドで 千代紙も  泣いた

 

 

◆冬のサナトリウム (あがた森魚 / 作詞作曲)

 

サナトリウム(隔離結核診療所)に幽閉された子。

呼吸困難の苦しさ。

歌詞からは性別が分からない。

ベッドという手枷足枷 (てかせあしかせ ) を組み敷いてはいるが、

負けたのは自分だ、と知っている子。

窓の外に見える景色から夢想したのだろうか。

 

出会いは幻。

誰と誰が出会ったというのだろう。

荒れ野から山径へ至り、そのあと誰かと出会ったのだろうか。

この不可思議な感覚。

注射器が吸い上げる悲しみ色の薬品の匂いが染みつく

白いレースのカーテン越し、

僅かな陽射しや月光を夏もやと、重ね合わせただけなのだろうか。

千代紙といえば女の子のよう。

女の子か、そのように優しく繊細な男の子か。

ザビエルが描かれた絵が飾られていたのか、絵葉書か。

 

壁のザビエルといえば、楽曲『薔薇瑠璃学園』を思い浮かべてしまう。

あがた森魚の名盤中の名盤 “ 乙女の浪漫 ” には、

冬のサナトリウムと共にその楽曲が納められている。

◆薔薇瑠璃学園 (ばらるりがくえん)

(長谷川守正、あがた森魚 / 作詞、あがた森魚 / 作曲) 読みやすさを考え、漢字とカタカナの歌詞をひらがなに転換しています。

 

今は独人(ひとり) 流離(さすらひ)に

菩提樹 萌えた庭 やつれし懺悔(ざんげ)部屋

めくるめく

真の道(まことのみち)など 歩けはしないよ

今 泣きながら 去るは 聖瑠璃学園(せいるりがくえん)修道院

 

 

まことの道など歩けはしないという吐露は、

聖人君子にはなれない自分を、或いは、

罪を犯し、それを隠してでもいる自分を恥じての言葉なのだろうか。

今、泣きながら去るとは、学園を追放されたのだろうか。

それともサナトリウムへ入院するためなのだろうか。

 

薔薇瑠璃学園冬のサナトリウムも、ボクにはどうしても

現代日本の少年少女像に重なってしまう。

このアルバムは大正ロマンがテーマになっているのだが、

不思議なことに何故か

たった今を映し出しているように思えてならない。

 

十九歳十月、窓から旅立ち…。

病で亡くなったのだろうか。それとも自ら命を絶ったのか。

何が見えたんだろか、とある。

親しき人の幽霊にでも誘われ (いざなわれ)ての旅立ちだったのだろうか。

雪明かりに浮かんで見える誘蛾灯(ゆうがとう)。

冬に蛾 ( が ) を見つけることは、ほとんどない。

誰も来ないということだ。あまりに物悲しく救われない情景。

現代日本、自らを幽閉したに等しい引きこもり現象。

イジメを逃れてのシェルターであるなら仕方がない。そうではないのなら、

出会いは幻にして欲しくないと痛切に感じる。

結核に蝕まれ、蛾のように突然ポタリと落ちる定めではないのなら、

弱くでも構わないから生きて欲しい。

死は必ずしも肉体の死を意味しない。

心が死ねば身体はそれに気づいてしまう。

自らも後追いしようとする。これは本当だ。

 

ほんの少しだけれど 陽が射しはじめた

 

だから。冬のサナトリウムを聴き、それを退け、出かけよう。

帰宅ののち、もう一度聴こうよ。

明日また出かければいい。

帰宅の後、そうしたら、もう一度聴けばいいんだから。