日本総コスプレ!/ 中身より見た目

日本人のコロモ(衣)好きは、今や全世界に於いて完全独走状態。疑う余地など一切なし。これ程までに日本人がコロモに執着するのは何故なのか。知れば日本が見えてくる。知れば日本人が見えてくる。見えてくれば、どうなるの?。知っておいて損はなし、認識新たで攻め方変わる。当ッたり前の話よネー、見えない時の考えと、見えてる時の考えと同じであるワケないでしょーッ。

1⃣ コスプレという、衣装という名のコロモ(コロモ)

日本人のコスプレが世界で人気。既存のアニメキャラからオリジナルまで、その衣装やメイクは千差万別、十人十色。ところが、外国の皆さんと日本人との間には、コスプレに対する考え方の違いが歴然と在る。

例えば女戦士。洋物、和物、どっちでも同じ。日本人は天ぷらコロモ主義。外国人は天ぷら全体主義。

どういうこと?。答えは簡単、即答しまショ。筋肉ゼロの女戦士っている?。現場の最前線で敵と戦う女戦士が鍛え上げられた筋肉質の体型じゃなくって、どうやって敵を圧倒するの?。目から殺人光線、自由自在に敵の脳をコントロールする特殊能力保持者。ああ、それなら分かる。ガテン系じゃないもんネ。

だけど大抵は仰々しい刀だとか近未来レーザー銃だか持ってるよネ。それって筋肉ないと使いこなせないと思うけど?。20センチのナイフ投げるだけでも筋肉が必要。だって凄まじい速度でナイフ飛んでかなきゃダメだもんネ。

コスプレ・ショーに限らず、洋画に出てくる女戦士を見れば一目瞭然。皆さん、身体をジムで鍛え上げてらっしゃる。スレンダーながら肉体美。鋼の腕に鋼の脚。

日本女性はその真逆。女性の命は柔肌ですわ、マッチョになってどうするの?。

つまりは衣装、メイクでのみ変身を許す女戦士が日本。外見がイノチで現実味なし。それで結構ザマス、日本人はリアルなものなど求めちゃいない。演じる女子も、カメラ構える男子もネ。コスプレの変身目的は女子の可愛さ引き立てる手段であって、道理なんてアッチ向いてホイ。そこんところが海外の感覚とは全く違うのよネ。良い悪いの問題じゃなくってお国柄の違いを話してるわけなのよネ。

2⃣ 着ぐるみという名のコロモ(ヌイグルミの脱皮衣装)

これだけSFXの技術が進歩しても、日本人は着ぐるみヒーロー、ヒロインをこよなく愛してしまうのよネ。ウルトラマンに仮面ライダー、地方のユルキャラ全部そう。円谷プロが背中ファスナーの怪獣作って早何十年。未だに着ぐるみ花盛り、新しもの好きの日本人なのに、ダァーレも古臭いだの時代遅れだなんて言わないもんネ。ハリウッド映画のゴジラ観たっショ?。クソリアルな爬虫類の化け物感、そりゃもー壮絶!!。この世に実在してるとしか思えない。

本家本元の日本は着ぐるみ中心。ジュラシックパークのTレックスみたいに前足が極度に小さいものだと着ぐるみ的にはキビしーッ!!。空飛ぶ羽根系も激烈キビしーッ!!。モスラは人形オブジェ宙吊り。となれば、手足の動き、身体の動きはどう転んでもSFX映像には勝てっこない。それを承知で日本人が着ぐるみにこだわり続けるのは、やっぱり日本人のDNA。重要なのはリアリティーじゃあなくってですね、“ 着ぐるみ文化 ” が市民権を得て確固として定着したからなんですよネ。ハリウッドは怪獣の筋肉の動きをリアルに見せるでショ。女戦士の場合と同じ、リアリティー=存在感、実在感なんだよネ。

3⃣ 風呂敷という名のコロモ(衣)

昔のお中元やお歳暮は風呂敷にくるんで相手宅まで直々訪問。中身がお品で風呂敷が天ぷらコロモ。今は大抵が宅配送だから風呂敷なし。その代わりに包装紙が物を言う。一流デパートの包装紙でなくっちゃねぇ~。

欧米のドラマだとか映画の中で、プレゼントもらったヒトがくれたヒトの目の前でバリバリ包装紙をガサツに破ってるシーンよくあるよネ。日本人的には分かってはいてもドン引き。肝心なのは中身でしょ?。まぁ、そうですけど…。

ロシアのマショリョーシカ(入れ子形式の人形)を、日本人は十二単(じゅうにひとえ)で実践してきたのよネ。日本コロモ主義の原点じゃない?、コレ。人間入れ子形式って結構凄くないですか?。

4⃣  “ 何でもかんでも ” という名のコロモ

とにかく日本人はコロモる。今でこそ少なくなってはきたものの、以前は本棚みーんなガラス付き。書物はガラスケースに入ってた。欧米ではそういう発想ないみたい。サンドイッチにホットドッグ、ハンバーガーも挟むだけ。日本人はカレーパンにクリームパン、アンパンにオニギリ、みんなコロモでくるんじゃう。コロモがガラスだったりパン生地だったりしてるだけ、とどのつまりは内包。

5⃣  “ 言わぬが花よ ” という名のコロモ

自己主張をしない日本人。主張がないのではなく、十分ある。コロモにくるんで出さないだけ。その主張もリアリティが有るのやら無いのやら。人の本音は覗けないから実態は不明だけど、日本人の主張って時事環境の影響受けて刻一刻と変容しているような気配を感じてしまうのはボクだけ?。

アメリカの大学は入学時より卒業時の方が大変。しっかり身になる勉強しなくいと簡単には出してくれないのよネ。日本は逆。入学は大変だけど出るのは楽。

背中のファスナーが引っかかりでもしなければッ。

 

◆写真タイトル / 中には何が…

 

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第一印象を制する人 / 成功者の絶対条件〈後編〉

 

 

 

森を歩きセミ時雨(しぐれ)を聞く。“ うるさい ” と第一印象。或いは “ 真夏なんだなァ ” と第一印象。セミが鳴くのはオスがメスを呼ぶため。力強く鳴けるオスが此処に居る、と知らせている。つまりは、“ うるさい ” だの “ 真夏なんだなァ ” の第一印象はセミが鳴く行為の本質とは何の関係も持たない、第一印象という名の単なる意見。人間の一方的な呟き。

親の静止叱責も聞かず、ファミレスを所狭しと走り回る子供。周囲には大迷惑この上なし。“ ちゃんと躾(しつけ)られてないわね ” と誰かの第一印象。確かに。しかし、走り回るは子供の習性。何故か。駆けずり回って情報を収集するように遺伝子が指示出しをしているからだ。いい悪いを言っているのではない。“ ちゃんと躾られてないわね ” の第一印象は子供の本質とは直接的な関係がない。つまりは第一印象という名の単なる意見。

こんなことなら第一印象など取るに足らないシロモノ。何の役にも立たない。面接の時だけ、誰かの前でネコ被る時だけ必要なダマシテクならどうでもいい。

ボクの言う第一印象はこれとは全然違う。全く別個のものだ。

メジャーリーガーのイチローは大打者で超一流のスラッガー。彼はゲーム中、或いはゲーム直後のインタビュー中、自身の “ 気 ” を完全に消し去っている。それには超一流の理由が有る。

イチローが次々に各対戦ピッチャーの勝負球を打ち込んでゆく。見事な業と言う他ない。既存の帝王学ではない彼自身が編み出した帝王学に基づくバッティング法の威力は余りに凄まじく、超一流投手に強烈なダメージを与え続ける。

ゲームのさ中、イチローは全ての選手の第一印象を探る。探り続ける。髪型?、ユニフォームの着こなし?、 装飾品の有無?、無精ヒゲはキチンと剃っているか否か?。まさか。風紀委員じゃあるまいし。

相手の “ 気 ” だ。それを見ている。今この瞬間、彼は何に気を取られているか。平常心を失っているか、集中して研ぎ澄まされているか、不安がよぎっているのか心がグラつき動揺して周囲が見えているつもりで全く見えていないか。相手の全身から発散され今まさに外気へ放出されている “ 気 ” を読む。

弱気だ!。

盗塁成功。一瞬の隙を衝いたのではない。ピッチャーが自身の弱気を気にかけ、それを立て直そうとして油断した数秒の切れ間を衝いたのだ。盗塁前に既にセーフという見切り。見てとれた第一印象は相手ピッチャーの弱気。それは僅かな注意力散漫を呼ぶ。イチローはピッチャーの第一印象を見事に読んだ。

初対面の投手だったとか何度も対戦している相手だとか、そんなことは一切第一印象とは関係ない。人間は状況下で変わる。まるで変わる。心理状態が変わる。冷静沈着な人間がいついかなる状況下においても冷静でいられるとは限らない。

つまりは会う度に人は変わる。人の精神状態は、心理状態は常に動く。ましてや大観衆見守るゲームともなれば尚更。心の波動は大きくスライドを重ね、動く。ベースボール・ゲームは刻々と数字を変えながら進行する。全選手、常に遭遇する一場面一場面、それらすべてのシーンに於いて、彼らとは誰しもが初対面同士なのだ。眼の動き、輝き具合、苛立ちを押し殺している気配。汗をぬぐう回数、牽制球の数。自身の気を、自身の気配を、自身の心理状態を見抜かれた時、そこを突かれる。トップクラス同士の一触即発のゲームだ。

イチローは自身の気を完全に消し去る。普段の子供の様にはしゃぎ饒舌な彼とは似ても似つかない寡黙な男。イチローに打ち込まれたピッチャーは必ずイチローのヒーロー・インタヴューを自宅で観るだろう。ピッチャーはイチローの表情、声のイントネーション、インタビュー内容、ありとあらゆる気を探る。気を探りその正体を掴みたい。何故か。自分を奮い立たせ、自分の能力以上の力を引き出せるものを読み取りたいからだ。イチローのおごり、慢心、得意の絶頂。もしそれがほんの僅かでも見出せさえすれば、それはイチローに対する怒りの導火線になる。一流選手が受けた屈辱は空恐ろしい反撃力を生む。プライドが傷ついたと認識したが最後、その選手は力量以上のプラスアルファを引き出すことに成功する。そんなことを誘発してはならない。

イチローは細心の注意を払いそれをディフェンスする。自身の為、チームの為に。ゲームは続く。今シーズンを終えても来年がある。片時も “ 気 ” が抜けない。

かつてイチローとは真逆のブザマ極まりないチームを観たことがある。世界的な選手権で優勝したそのチームは興奮冷めやらぬグランドで有頂天のお祭り騒ぎ。周囲の人々など眼中にまるで無し。天下取ったゾ!、鬼の首取ったゾ!、相手国の観客や選手への敬意などまるで無し。

案の定、次回は優勝を逃した。その次は更にランクを下げた。

テクニカル面が全てを制す?。それだけなら試合など大して面白くない。

第一印象で仮説を立て、実行に移し揺さぶりをかける。成功した。相手は警戒を強める。第二印象で他の気を探る。気の放出がない。隠したな。さらにチャンスを待ち、第三印象を探る。それが延々と続く。長いシーズン中、次第に印象によるデータが蓄積される。基本それは参考程度。人は状況に応じて刻々と変わる。心理状態が変わる。何度対戦しようとも、常にその相手とは初対面。それが第一という本当の意味だ。

前編で人は自身から立ち上る気を自身で隠蔽(いんぺい)することは不可能だと記した。ではイチローはどうやって自身の気を消せたのか。

代わりの気を投入すれば良いのだ。仮想の気を放出すれば良い。それがカモフラージュの役目を果たす。イチローは野球とは全く別の事柄に強く囚われ気配を消す。無論、計算された意図的な行為だ。例えば愛犬が病気になった時のことを思い出し、今という時が当にその時だと仮想し、その状況に身を置く。分かり易く例で説明しよう。

 

 

会社の就職面接。面接官数人の前。彼らが求める人材は、求める “ 気 ” は、当然のことながら受験者のやる気。面接官によって気の要望が異なりはするが、基本的には、勝気、元気、心意気、覇気、勇気、強気。総じて気概、気迫、気力。それが彼らに明確に伝わりさえすれば間違いなく採用される。

逆に、一流大卒だろうが経験豊富だろうが、面接官に自身の気落ちを感じさせたり無気力を感じさせたり、気分散漫を悟られたり覇気がないことを見抜かれたらそれでお終い。

仮想第一印象を創ることだ。自分が発奮し劇的にやる気になる何か。勇気みなぎり気迫を押し出せる何かを自身の中に仮想設置することだ。

恋人と今すぐ結婚したくてたまらない!。その恋人のお父さんから結婚の許しを何が何でも得たい!。ならば今、目の前に居る面接官たちが、その恋人の父親で回りが親戚。本気でそう仮想して面接に臨むことだ。ボクのこの助言を信じ、この方法で不可能と思われた第一志望の難関会社に就職を決めた者がいる。彼のひと言は、

「一生大事にします!。誓います!」

「何か娘の結婚のお願いに来てるみたいだなァ」と面接官は笑い、周囲も苦笑いしたという。

 

ホントにそうだったんだけどネ。

 

 

 

◆写真タイトル / 苦々しくも気のない素振り

 

 

 

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親の傾向は子供の傾向 / 時代の変選と親心

 

 

 

日本人の親は子供を放っぽり出してまで仕事に明け暮れる。帰宅すればクタクタ状態。もはや蘇生不可。入浴とノミほどの余暇時間の果て再生布団へ直行。

いや、微妙に違うかもしれない。日本人の仕事人間ぶりは海外でも取り沙汰されることが多々ある。仕事中毒による人生の喪失者であると。日本人は深く物事を突き詰めて考えるのが苦手。何故そのような国民性が定着するに至ったのか。その答えは領土環境と身体的特質にある。

日本の四季は美しい。美し過ぎる。縦に伸びる細長い領土は四季様々な違いを生み出し生息する生物や景色に多様性を与える。豊富な水、豊かな土壌、世界でも類を見ないおびただしき魚種行き交う海域。ちょっとでも深く物事を考えようとした途端「おい、花見いくべや」「魚獲り行こ」「山菜摘みに行かんかね」。

尽きる事のない山海の恵み。飢饉や戦争などの特殊状況下は別として、日本人は周囲環境にずっと目を奪われ続けてきた。目に染みる緑、きらめく渓谷を吹き渡る風。美味極まりない食物の数々。

身体的特筆能力としては舌。世界屈指の味覚能力の高さは僅かな味覚の違いをも感知する。つまりは、美味しい物を食べてさえいられればそれで幸せ。味覚を楽しみながら景色を愛でる。そんな時に似合うのが “ 和を以て尊しとする ” お喋りであり、つまりは深刻な話題はご法度。味覚も景色もぶち壊し。

そんな日本人の日常特質を利用したのがTV業界。良くも悪くも、思考する必要のないお手軽番組を薄利多売で提供する。TV業界が悪いのではない。TVはただ我々の姿をソックリそのまま鏡映しで見せたに過ぎない。

だが時代は豹変する。先送りにしていた様々な問題を湛えていたダムが遂に大決壊、収拾もままならず事態は刻一刻と進行を続け、神頼みの自然消滅も起こらない。心の病を患う人々が爆発的に増え次々に倒れて行くさ中、TVは依然として人々が望まぬ番組を制作するばかり、肝心要の受け皿を用意しない。

TVは世相を映す鏡。スポンサーである各企業は、未だに勘違いから脱却出来ずにただ茫然と立ち尽くす。深刻な社会問題を真っ向から扱った番組をゴールデンタイムに流そうものなら、業績アップはおろかイメージさえも大打撃を受けてしまうは必定、と本気で考えているフシがある。それは大変な間違いだ。CMを企画する大手広告代理店からどんな資料やデータ解析の説明を受けているか知らないが、ただシンプルに考えれば簡単に分かるはずだ。

保育所や幼稚園の空き待ちをしているお母さん達が本当に観たい番組は何か。知りたい情報は何か。孤独な独居老人が視たい番組は何か。

そんなことは皆よおく分かっている。分かっているからTV離れは加速する。今後もそれは止まらない。失速することはない。人は欲しいと思う情報を探し、不必要な情報は遮断する。理路整然とした自明の理。

我が子に素敵な個性を与えたいと思うなら、桜の花見にだけ目を奪われるのではなく、桜が散った後、桜の落ち葉拾いに子供を連れ出すべきだ。紅葉した桜の葉の美しさをアナタは知っていますか。そんな話、桜前線のさ中でさえTVでは決して出てきません。つまりは世論の支持がない。世論が提唱支持しないものには意味がない。桜の葉は無意味だ。そういう世論である以上、他の人と違うことはしたくない。というのであれば、二度と我が子の個性云々などと語るなかれ。語ればそれは偽善となる。

仕事が出来る親は家庭で概して無力。全力投入後の帰宅。家人達から繰り出される全てのわずらわしさは抜け殻の身体には毒。逃れる素行はひとえに限界点に達しているからだ。同情を禁じ得ない。だが日常は続く。容赦がない。やがて、逃げの姿勢を誇示し続ける者は家人から父権を失い黙殺される。

実りあるものを見るのが王。これを、現実、と書く。故に父権を失なった家族は空中分解を余儀なくされる。妻は夫に日常の取るに足らない問題解決の一切を丸投げされるが、父権を与えられたというわけではない。ただ単に雑用係に任命されただけだ。夫や妻は自分達もそういう家庭で育ち何とかやって来たんだから、これでいいのだ。これが普通だと考える。大きな間違いだ。時代要素や背景がまるで異なる。世界を巻き込めば尚更だ。

父親よ母親よ、責任転嫁をやめることだ。学校の懇談会に欠かさず出席することが子供を守り見守っている証明になどなりはしない。家庭で子供とデュエットしたことが有りますか。子供が好きな歌手の歌、その歌詞の一部の意味を尋ねたことがありますか。どうして殺戮ゲームに興じるのか、ゲームに登場するキャラクターの性格や性能について尋ねたことがありますか。それが何の役にたつ?。たちませんよ何にも。興味も関心もアナタにはないですしね。尋ねられた子供の反応は?。ウザイと無視されましたか。面倒ながらも教えてくれましたか。反応は様々。親の傾向は子供の傾向、時代の変選で親心も子供心も変化する。

アナタの理想とする親子関係を築き上げる方法は唯一つ。親を押し付けず、子共だからと軽んじず、ただひたすら、子供の性格や性質、精神状態を見抜く努力を続けること。それが通じれば、今度は子供がアナタを理解しようとする。血筋も血縁も親子もへったくれもない。それ以前に人と人。成熟しシッカリとした自我を持つ大人の人間と、自我さえ見いだせない未熟な子供と言う人間。年齢差からくるハンデを笑ってはならない。未熟さを笑ってはならない。常に優位に立っているのは大人の方だとおごってはならない。親だから、のひとことで全てを掌握し支配出来ると本気で行動に移したなら、必ず家庭は崩壊する。それが早いか遅いかの違いだけ。アナタに飼い犬が居るならば犬は畜生ではない。アナタの友達であるべきだ。散歩へ連れてゆき仲間のマーキングした匂いを嗅ごうとする犬のリードを無理矢理引っ張り、犬を引きずりながら散歩を続けようとする飼い主の姿をよく見かける。散歩に連れて行ってやってるんだ、ありがたく思え。だがしかし、犬は歩かされただけ。犬の散歩は仲間との情報収集が目的。え、そんなの関係ないって?。ならばアナタは一体誰だ。この犬の本当の飼い主はどこだ。アナタの子供にも飼い犬と同じことをしていませんか。

 

親なんて居ても居なくても同じだよ。

あちこちのお茶席上、未成年者達から何度も何度も聞く言葉だ。

 

 

 

◆写真タイトル / 甘さたたえるピッチャー

 

 

 

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夢は今も巡りて 忘れがたき故郷 / 憎しみが愛しさに変わる時

音梅は猿回し師。今春より新しき猿の幼児買付け、早速の調教開始。

まずは慣れさせ、我をば親と思わせること。その辺は心得十分、さりとて油断厳禁。何せ生き物、ましてや知能は高い方。

半年経てども慣れぬ。慣れてこぬ。いささか戸惑う。やがて苛立つ。

「選び間違えじゃねえか!」祭りで出会う仲間衆にからかわれた。

面白ぅない。全くもって面白ぅない。この音梅様は冗談好かぬ。断じて笑えぬこの心根(こころね)。笑うは商売、この顔、道具と見立ててひと昔。子猿の乙松、恨めしや。尚更このツラ笑うどころか、しかめ面。

 

これまでとは段違い。ここまで酷きは覚えなし。周りを囲んだ客衆に掴みかからんばかりの牙向き様、荒れ狂い。笑わす猿が人を相手の人回し!。

祭りの主から大目玉。こいつが一番利いた、利いた、利いたの何の。音梅生涯初の悔し泣き。そいつを眺めて乙松興奮、親に向かって掴みかかるや及び腰やら、計りかねるも、とにもかくにもギャギャギャーギャーッ!。

一度も回せなかった子猿。わずかな月日というに、ろくな猿回しも出来なくなったは何故(なにゆえ)か…。

音梅は涙もろくなった。しきりと故郷を懐かしむようになった。追われた場所が懐かしい。なるほどオレも老いぼれた。こんなじゃ猿にも三行半か。

音梅はやたら故郷を口ずさんだ。兎追いしかの山、小鮒釣りし…。

そんなこんなで二た年が過ぎ、音梅の野郎、持病の肺でこと切れた。

「このサルが寿命を縮めたようなもんじゃねえか、クソ猿が。コイツの始末どうつけんでぇ」

「街に無料動物園があるけんどよ、そこが2千円で引き取るってよ。ククク、オレ様にかかりゃあ何でもかんでも金に化けちまうのよ」

三年が過ぎた。東京からこんな田舎の動物園に、若くて綺麗な女が見学に来た。連れの男が自社の講演を彼女に依頼、その帰り。動物園があるなら見たいと彼女に言われ此処まで案内して来たという次第。

「あら、あそこで縮こまってるお猿さん、何か独り言いってるわ」

「オッ、先生お得意の唇読み、やってみますか(笑)」

「うん。……ええと、何、何?。ウサギ、……オイシ…カノ…ヤマ」

 

◆写真タイトル / どこに

 

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まさかの時 / ヒーローとヒロイン / 救うのはどっち?

Title : ハンペン野郎のマサカ・フィーバー

 

 

日本映画では未だ未だその様な傾向は少ないが、これが海外映画、特にハリウッド映画となるとホラー映画のスプラッター(どえりゃあリアルで生々しく、かつ血生臭い殺傷描写)場面の描写たるや壮絶極まりない。

まあ、今や芸術の域にまで到達した特撮技術、目いっぱい使わない手はないわけで、もはや本物との区別さえつかない実話成りすましである。

ハリウッド映画の名作とされるスプラッター物をやったら観ていて、ついぞ面白いことに気が付いてしまった。言われて見れば確かにそうだー!、だけどナニゲに気が付かなかったヨー的な。それを記そう。

 

主役(襲われ逃げ惑う側)が17歳あたりから25歳くらいのカップルである場合。

1⃣  ハッキリと自分達に向けられた殺意を認識する2人。宇宙人もしくはゾンビ、あるいはサイコパス、またはマフィア、でなければギャング、ありがちに幽霊、亡霊、怨霊、最悪で悪魔、ありがちにカルト集団、意表つく形でチワワのゾンビなどの襲撃を1度ならず2度までも受けてしまった辺りで、間一髪難を逃れて何処かに身を隠す悲痛な2人。「オレがオマエを守ってやる。いいな?」的なことを男が女にキメ台詞。蒼ざめる決意顔の男を見つめ、キッパリと頷く女。

2⃣  襲ってくる上記の何がしかは次第にドを失い、全くもって手がつけられない状態と化し、半狂乱でヒーローとマドンナを執拗に追い回し追い詰める。やられなかったのが奇跡だと思えるような危険極まりないシーンが速射砲の様に2人を、視聴者を襲う。そのハザマで周囲の関係者らも次々と惨殺されてみたりして。

3⃣   彼女を必死で守りながらケナゲに戦ううち、ヒーローは何がしかの致命傷1~3歩手前の傷を負わされてしまう。大抵の場合、片腕だとか片足が多い。ヒーローが歩けなくなってしまう状況は絶体絶命の感が強くなるので、足に傷を負うケースが腕のソレよりか、多い。

4⃣  孤立無援となり、戦うか死か、の二者択一を迫られるマドンナ。以降、か弱き彼女は意表をついて仰天する程強くなる。逃げ足の速さ、傍にある適当な物を武器にし、金切り声を上げながらサイコパスだか悪魔だか吸血鬼だか知らないが、ソイツをブチのめし、機敏に身を隠してみせる。「アア!! 、神様神様、お助けくださ…キャーッ!!」 と身をひるがえし脱兎のごとく彼の元へ。足手まといの彼に肩を貸し、何とか徒歩逃走を試みるか、或いは「警察を呼んでくるから隠れていて!」などと言ったりするが、大抵、言い終わった瞬間にチワワのゾンビだかマフィアの殺し屋だか何だか分からないが、ソイツが襲いかかって来る。

5⃣  面白いことに気が付いた、というのはココ。マドンナは開き直ってか、火事場の馬鹿力か分からないが、猛然と恐れ知らずの女に瞬間転化、「ウォォォォーッ!!。このいまいましいクソ野郎ッ!!。もうほっといてヨーッ!!」と、人造人間だか人食い狼だかに強烈な一撃をお見舞いし、結局それが悪魔だか呪いのミイラだか分からないが、とにかく唐突に、悪夢は去ったと知らしめる朝日が急に差し込み始め、誰が911したかは分からないが、同時にパトカーのサイレン音が遠く小さく聞こえ始め、画面下からゆっくりとテロップが上がり始める。

① 最初にヒーローがマドンナに言った「オレがオマエを守る」は、明らかに、それが男ってものだろう、ン?。みたいな男の保護本能エンジンが見てとれる。② マドンナは結果的にヒーローを助けるが、大抵の場合、母性本能、保護本能らしきものは余り見受けられず、自分が危ないからやったまでのことで、それが間接的に彼の命をも助けることになったという、いわゆるオマケ的な、極めて純度の高い自衛本能のみが見てとれる。映画を見終わった男達の脳裏にはシックリこない何かが去来するが、あまり深く追求することなく余暇の時間は終る。

 

本質なんかよりイメージの方が好きッ!

日本語でネズミ、英語でマウス。ネズミって呼び名、あんまり耳障りがいいとはいえないよねぇ~。カジる、カジられるを連想しちゃって、あんまり気持ちがいい感じはしないよねぇ~。それが証拠に日本じゃ親しみやすいネズミのキャラなんて昔っからないもんねぇ~。それどころか、ドブネズミなんて侮蔑の言葉にもなってるし、実験用のハツカネズミの功績たるや凄いけど、それでもやっぱり日本じゃペットとしての人気はかなり低いってもんだよねぇ~。

アメリカが世界に誇る2大マウスの大スターといえば、ディズニーのミッキーマウス(関連マウスを含む)とワーナー・ブロスのジエリー(関連マウスを含む)。

面白い点は、ネズミ嫌いのここ日本でさえもミッキーマウスとジェリーの人気が不動であること。本当はここにイタリア生まれのトッポ・ジージョが名前を連ねるべきなんだけど、残念ながら知名度がかなり低いんだよねぇ~。アニメーションだとか映画だとかの媒体に乗せなかったのが敗因なんだろうねぇ~。すっとぼけててボクは大好きなんだけどねぇ~。シャイでモジモジしてるとこもなかなかでしょ。

日本で両者が大人気なのは、ブッチャケ、皆さんミッキーやジェリーをネズミだと思ってないんだよねぇ~。思ってるけど思ってない。まさに本質忘れイメージに生きる、の典型。それを可能にしたのがディズニーやワーナーの魔法。もはやマジックだと断言しちゃっていいでしょ、ここまで来るとねぇ~。

そこまでとはいかないけど、テディベアにもコレ、ある程度当てはまる。熊だって可愛い顔してるけど、恐ろしい生き物だったりするわけだしねぇ~、犬や猫とは明らかに違う獣。だけどやっぱり、テディベアは子供と大の仲良し、お友達。

現代はイメージが本質を打ち負かす時代。これまでもそうだったけど、今に比べたら可愛いもの。なにせ昔は全世界に噂話が駆け巡る、なんてツテがなかったもんねぇ~。それこそマウスが無かったでしょ。

本質は見えにくくて、イメージは見えやすい。本質は掴みにくくて、イメージは掴みやすい。本質はゴチャゴチャしてて、イメージはサクッと単純明快。本質は人々をケムに巻くことが出来るけど、イメージはもともと人に見える様に人が作るものだから、一旦ダーティーなレッテル張られちゃったらハイそれまでよ。逆にクリーンなイメージがインデックスされたなら世界だって席巻出来ちゃうトルネード!。この違いって驚愕もので脅威もの。

テクニカル的にはイメージ先行商法が大変賢く効果絶大。当たればナイスな高感度イメージが増幅を重ねて1人歩きの大成功。

イメージより本質で勝負出来るのは実用性が求められる物。便利で実用的でなければお話にならないもの。例えば車。イメージより本質。アメリカの大西部真っただ中、ロシアの大雪原の真っただ中、車がエンストしちゃったらアウト。命の危険すらあるからねぇ~。イメージなんて言ってらんない。

イメージと人間。これが一番やっかいで恐ろしい。ひとたび人間に付いたイメージを払拭するのは至難の業。ブラッド・ピットやジョニー・デップは善玉悪玉何でもござれの名優だけど、子供を残忍に殺す役、出来ると思います?。絶対ムリムリ、だって世間が絶対それを許さない。例え、役者として迫真の演技に挑戦したいから、と本人が崇高な理由を掲げたとしてもダメ。まず映画会社がOKしない。だって興行成績低迷は火を見るより明らかだから。良きパパ、家庭を大事にするキャラクターイメージの権化シュワルツネッガー、カリフォルニア知事選にこのイメージが関係しなかったとは到底思えないし、彼が知事退職後、映画復帰第1作目が麻薬のディーラーだなんて絶対世間が許さない。

映画 “ プリティー・ウーマン ” (1990年、ブエナ・ビスタ・ピクチャーズ)は何故当たったか。答えは明々白々。リアルな娼婦イメージを持つ女優を使わず、真逆のジュリア・ロバーツをヒロインに起用したから。だってジュリア・ロバーツといえばインテリ、かしこく健全、ホワイトカラーのイメージ有り有り。観客は誰もモト娼婦などとは思っておらず、彼女を現代版シンデレラに重ね合わせているのみ。イメージを逆手にとったワザありの1本、凄いッ。

 

 

◆写真タイトル / トッポジージョ

 

 

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