腕時計の秘密

 

 

1⃣ 時計が必須アイテムの現代人。腕時計と手首時計、アナタはどっち派だろうか。手首に付ける時計はコンパクト、腕に巻き付ける腕時計は腕の血行が悪くなりやすい。

手首時計は人の目に触れやすいが、腕時計は夏場を除き衣服で隠れ見ることが出来ない。腕時計が体内時計とも呼ばれるゆえんである。

脱力の秘密

 

 

 

おかしい。どう考えてもおかしい。脱衣は服を脱ぐ。これは分かる。しかしながら、何故脱字であって抜字ではないのか。脱線で良いのか。線を脱ぐで本当に良いのか。どうやって脱ぐのか。線を脱ぐものがこの世にあるとすればヒモのついたもの、キャミやブラなどしか思いつかないが。フンドシもありか。

一個人の秘密

 

 

1⃣ 一個人は無力。よく言われる言葉だが、一個しかもらえないのでは力の出しようもない。しかし、それが立ち位置であることも社会のルールだ。

幸せの秘密

 

1⃣ 風の秘密

上、夏休み子供向け講演会で発表されたボード。

 

 

2⃣ 球体の秘密

下、物理学的観点から提言されたボード。

 

 

 

 

3⃣  4⃣ 幸せの秘密

人間の本質をつくテーマ2点を紹介。

 

 

 

 

 

蟹とタコの秘密

1⃣ 馴染みある生き物達の秘密

人となじみ深い生き物を通し、人間の感性を探る内容のボード3点を紹介。生物学者達から賞賛を受けた渾身の発見。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇ これらは大人の純粋な学術研究に関する資料ですので、子供の手の届かない場所に保管して下さい。

日本人的ブルースとは/ 演歌はブルースか

Title : 「ブル~スしか歌えんばってん、オレはトナカイ、鹿ではなかとよ」

 

 

何故か日本には曲名に~ブルースと銘打った歌ジャンルが存在する。誰が考えたものやら。誰が仕掛けたものやら。

アメリカの黒人音楽、しかも哀歌を、日本人の悲恋ソングと同等に位置づけるそのセンスは実に大胆かつ面白い試みだと思う。

皮肉を言っているのではなく、双方に流れる悲しみや苦しみの深さが何ら変わらない、と言っているところが興味深いと感心することしきりなのである。しかしながら…。

 

♪ 伊勢佐木町ブルース ♪  には絶望的な悲しみなど存在しない。むしろ成就した、成就しそうな恋愛を楽しんでいる女主人公が居るばかり。

4分の4拍子でさえあればブルースだ、などと強引なことを言う人はまず居ないわけだし、青江三奈の歌声には明らかな悦びの熱情が窺い知れる。

つまり、この歌はブルースという恨み節や苦痛に耐えるための霊歌の要素などとはおよそかけ離れたところに位置しているのである。

それなのにボク達日本人は、この伊勢佐木町をテーマとした楽曲が紛れもなくブルースである、と自然に受け入れてしまうことが出来る。これまた不思議な感覚、現象ではないだろうか。この歌がブルースなのはおかしいと言った人を聞いたことがない。

 

♪ 受験生ブルース ♪ (高石ともや)しかり。受験生の大変さは人生の大いなる苦しみという程のスケールではない。それゆえこの歌はコミカルな調子で歌われている。

つまりはアメリカのブルースとは真逆、縁もゆかりもない楽曲と言える。だがしかしタマゲ上げることに、この歌もまた、ブルースという名前が良く似合う。このシックリ感は、恐らくボクら日本人に共通した何かなのだろう。ウムウム、これはブルースだな、なあるほど、と途方もなく納得してしまえるのは一体何故なんだろうか。

推測なのだが、ブルースという単語の響きが、本来この単語が持つ意味と相反する全く違う何らかのイメージを、日本人にかなりビシバシと連想させてしまっているのではないだろうか。

フォースと共にあらんことを、と同じく日本人にとっては、

“ ブルースと共にあらんことを ”

とまで言い切ってしまえる程の何か。その正体は一体なんだろうか。

 

♪ 中の島ブルース ♪ (アローナイツ / クールファイブ)もまた絶望ソングではない。打ちひしがれた男と女が小さな希望の灯によりそう、明日を信じる事が出来そうなニュアンスが行間に流れている。

もしこの曲名からブルースという言葉を取り去ったなら、代わりにどんな単語を持ってくればシックリするだろうか。

中の島。中の島物語。中の島の2人。中の島慕情。……慕情?。

慕情の線は悪くはない。恋い慕う、の意味なのだから少なくとも場外ホームランで彼方へ飛んだブルースという単語よりはグッと近い。

伊勢佐木町慕情でいいし、中の島慕情、でいい。歌詞の意味合いからすれば、間違いなくブルースよりは慕情の方が間違ってはいない。

だがしかし、何故かどうしてか、慕情ではダメだ。

大半の日本人的が慕情という言葉から連想するのは、パッとしない、覇気がない、ジミ。そんな驚愕すべき感覚があぶり出されてくる。

本来の慕情という言葉の意味、恋い慕う、といったトキメキ感、震える情熱、などの感覚は、この慕情という発音からは一切感じ取ることが出来ない。

ああ何故何故ナゼでしゅかー!。日本人は慕情という言葉に何ら恋愛成就の匂いを感じ取ることが出来ないでいる!。未だに!。じゃ、ブルースに戻す?。

伊勢佐木町ブルース。中の島ブルース。

これだ、これだ、これだあああ!。やはりこれしかない!。歌詞の内容にそぐわない単語であるにも関わらず、依然としてヤッパリこれでなければ辛抱ならない!。

♪ 柳ケ瀬ブルース ♪ (美川憲一)は恨み節の典型、全く持ってブルースである。和製ブルースの決定版である。歌詞の内容も間違いようもなくブルースである。

♪ 昭和ブルース ♪ (天地茂)しかり。しかし、恨み節の方が日本だなと。

柳ケ瀬恨み節。昭和恨み節。

ヒェェェ~ッ!、ダメだぁ~!。これでは全くもってナンセンスである。歌詞の意味合いからすると、ブルースより恨み節の方が日本人特有の感覚を満たしているにもかかわらず、やはりブルースでなければシックリこない。丸ごと納得出来ない。

ブルースという言葉の響きには、何かこう、粋な響きがある。本来の意味合いとは全く関係なく、日本人にはブルースという言葉の響きが粋でイナセに聞こえてしまう。ヤボの逆、今風の匂い、時としてスタイリッシュでさえある。

 

となれば原田真二のポップ調、♪ てぃーんず ぶるーす ♪ 命名もひどく納得出来ちゃうもんだねえ!。

つまりは、結婚の喜びを綴った歌詞のタイトルにブルースという単語を入れたとしても日本人的には在有り、という強引な力技の結論が出来上がってしまいました。

白チャペルのブルース、花嫁に贈る父からのブルース、ウウム、合う。そら恐ろしい程、合う。しっくりくる。とんでもなくバッチリではないか。あまりの収まり様にほぼ意識を失いそうになるほど似合う。

悦びや悲しみ、そういう内容の歌タイトルに、~カンツォーネだとか~オペラ、だとか、~シャンソンと付くものはほとんど無い。

~ロック、~ブギ、~タンゴは多い。

すなわち、日本人はゴロ合わせの曲名、響きのよい曲名を大層好む趣向を持ち合わせているのだという事がつくづく分かってしまった。

~追分、もゴロがいいし、~恋歌、もイイ感じ。

日本語には、つまずきやすい漢字が多い。つまり言いにくい言葉、流れない単語や語句が沢山ある。誘われる、はいいが、誘われる(いざなわれる)だと流れない。引っかかる。

歌は流れるようであって欲しい。そう日本人は無意識に感じている。

加えて日本人は言葉の持つ響きから、本来その言葉の意味と全く違う印象を持ち得ることに何らためらいがない民族ではないだろうか。

アメリカ人の言うブルースと、日本人の言うブルースとは明らかに意味合いが違う。

今やブルースは日本語。不思議な魔法の言葉なのだ。

 

確定申告 / 希薄な納税意識 / 犬とネコの違いで明らか

Title : かぶられ損の犬〈ドッグ・ハット〉

 

 

確定深刻の季節、皆さん頑張ってるだろうか。源泉徴収で自分が納税していることがピンとこないサラリーマンの方々も確定申告はした方が良いのは明白。

政府が税金を使い捨てしていることに無頓着ではいられないだろう。

ネコは色々な相手を攻撃する時、ほとんど右手のネコパンチのみで応対する。ネコの肉球は柔らかいので、当然ツメを立てていなければ相手に打撃を与えることが出来ない。ネコならエッセイ投稿記事しかり。

能ある鷹はツメを隠す。ネコパンチはツメを出すが、ネコが脳なしだと誰が言えるだろうか。

牙を抜かれた野獣、これはサラリーマンにも十分共通点を持つ。オヤシラズを抜く人も多く、温和な人なら、牙を抜かれた羊と呼ばれようとも耳に優しさを感じることが出来るだろう。

ネコ撫で声、は時と場合による。ネコを撫でれば常に快感の鳴き声をあげるわけではない。その時の機嫌が左右する。

一方、犬は撫でられると大変喜ぶ。時と場合の機嫌にネコほどは左右されない。にもかかわらずに、撫でられている時、犬は無言。これだけで犬は相手にされず理不尽だと思われる。

沈黙していてはならない。確定申告で反撃すべきだ。

加えて、人々はもっと甘いものを多く食べるのは女性より男性なのだと肝に銘じるべきだ。

 

ネコっかぶり、という言葉に至っては恥知らずも甚だしい。

ネコを無難にかぶれる人がいるだろうか。どんなに飼いネコに好かれている飼い主であろうとも、ネコを頭にかぶってネコが大人しくジッとしている、などというノーテンキな夢をいつまで見ているつもりなのか。

犬なら大丈夫だ。よほど体重のある大型犬でさえなければ、小型犬なら比較的簡単にかぶることが可能だ。

確定申告しないサラリーマンは、かぶられた犬、の状態にあると言っていい。

飼い主の希望に沿うべく、バランスを崩しそうな姿勢で必死にかぶられている犬。にもかかわらず、犬っかぶり、という表現などなく、在るのはネコっかぶり。在るのはただ、ネコ撫で声。

私以外に、こういった正論を唱える評論家は皆無であり、サラリーマンの税金意識に継承を鳴らす勇気ある者は、私くらいしか居ないのだろうね。

ぼっち、ぽっち、どっち?

Title : 雪山にいぬぽっちなセント・バーナード

 

 

誰しも、人から、きとるね、かなりきとるね、と言われるような人間なら、ひとつやふたつ、MY探求課題というものを心の中に温めている筈だ。私の場合、

 

ひとりぼっち

 

この課題だ。

ぼっち、って何。

どうゆうこと?。

その後、ふたりぼっち、という言葉を耳にして驚いた。

何それ。

そうゆうのもあるの?。

その後、暇なとき、寝ころんで天井をボンヤリ見つめながら、こう思う。

みんなぼっち

というのもありなのかな、と。

きみぼっち

とか

「わたしぼっちだから私」などと言う女性が次第に、明確に、そして強く眼に視えるようになってきた。

つまり、私はそんな偉そうな人間ではないが、明らかに

ぼっち

を捉えたような気がする。よく人が口にする言葉、あなたも口にしたことがあるはずだ。

「これっぽっち?」と。

ぼっち

ぽっち

両者には何かしらの関係があるのではないかと私は疑った。犬の名前に

ぽち

はあるが、

ぼち

はない。

だが、もし飼い主が飼い犬のポチに「ぼちぼち行こうか」と促したとしたら?。

あるいは、ポチが与えられた餌を見て「これっぽっち?」と思えたなら、

「ポチはこれっぽっち」ということが出来る。入れ替えれば

ぽっちはこれポチ

とも言える。つまり、ひとりぼっち、のぼっちとは

ぼちぼち行こうかと、かつて促されたポチの孤独を言い当てているのではないか。

ならば、ふたりぼっちとは

ポチが鏡を覗き込んだ時の状態と言えないだろうか。

 

 

Title : 鏡の中のポッチと向き合うボッチ2020Zの後ろ姿