Title : 何で満たそうドンブラー
未成年の子は親の保護下にある。保護とは、ありとあらゆる意味を持つ。
親に経済的ハンデがある、環境下が劣悪、両親多忙による不在。ありとあらゆる理由によって “ 保護 ” の形態と純度、色合いは変わる。
親に依存症もなく、犯罪歴もなく、愛情もあり、環境も健全。それでも未成年者は道をたやすく誤る。
何故か。
親に隠れてあらゆる単独行動を試みるからだ。無邪気に自発的思い付きで始める、友人の勧め、強制でも起こる。これは防げない。
つまり、“ 保護 ” とは最初から完全実現とは程遠い行為だ。
神が見ている。は、もはや多くの子供には通用しない。祈りを強制することが信者の証だなどとは誰も思わないだろうし。
実際的で実現可能な、子供自身による、自分自身の道を決して踏み外さぬ法典は聖書ではない。
聖書と教会であればよいが、実際問題、違う。
コミック、マンガ、映画、ドラマ、実在、架空問わず、子供が熱心な信奉者となるヒーローの存在。これこそが神に成り代わり子供を保護出来る実践的存在だ。
神はヒーローではない。道を説き聡し、導く光だ。
ヒーローは道を説かず視覚的に実践するのみ。さとさず導かず、憧れさせるのみ。同一化を夢見る子供は実際的で現実的なリアリストだ。
架空のヒーローと聖書の神。子供にはどちらも架空の存在。
神は果たして存在するか否か、この議論は膨大な時間を要し、大抵の場合徒労に終わる。
ヒーローは視覚的、聴覚的に、喋り、聞き、子供が見慣れた現実世界、空想世界を躍動する。
ストリートギャングはアルパチーノのスカーフェイスを大抵観ているし、トム・クルーズのトップガンに憧れて空軍に入隊した兵士は非常に多い。
子供と、そのヒーローについて、ヒーローを通じて徹底的にディスカッション出来るかどうか、やる気はあるのか、それが保護の度合い、比重を分ける。
どのヒーローが最も適切なのか。それが分からなければ、今の時代、どんなにエリートな経歴を持つ親も、無力下の保護のさ中にある。
ディスカッションに子供が乗れば、親は善意のスリコミを散りばめることが出来るだろう。
何故、バットマンは銃を携帯しないのか。