ログイン / 出会い系 / 検索結果

Title : 中には無いようで実は在るかも

 

 

 

私の部屋から 世間を覗く

私の部屋から 社会を覗く

私の部屋から 世界を覗く

私の部屋に 電子窓

私の部屋に ある世界

それが友だち

 

時折向こうが こちらを覗く

こちらは 向こうにとって あちらの世界

こちらは 向こうにとって あちらの社会

こちらは むこうにとって

見知らぬ友だち

 

窓の世界を ドライブ

ハンドルには 名前

私にはないが ハンドルに ある

選んだ道を ドライブ出来る

いつでもどこでも ドライブ出来る

都市へ行き 海に行き 物を見て人に聞く

今日の次に過去へ行き 未来という名の 今日を聞く

未来という明日へ行き  明後日には 過去へ戻る

 

私の部屋には 国がある

私の部屋には 人がいる

見知らぬ誰かは 見知った誰か

私の部屋には ドアがない

私の窓に ドアがある

開かないドアは 開いた窓で

いつも誰かが 探してる

探しているから 開いてる

私の窓を 探してる

窓が閉じても 開かないドアは

窓が開くのを 待っている

 

眠らない

止まらない

動き続けて 動かない

 

 

私の部屋に 来ましたか

あなたの部屋から 来ましたね

目的が ありました

誰も 変更しませんか

目的は 済みました

 

 

右を追う眼に 左が続く

左を追う眼に 誰か加わる

しばらく一緒で 途中で消える

ずっと一緒で 入れ替わる顔

 

 

止めれば止まり 動けば動く

開ければ開き 閉じれば閉じる

止めても止まらず 開けても開かず

ハンドルが切れない時

 

 

あなたは部屋の外に 居る

 

 

 

 

巣ごもり料理 / メカジキのムニエル

Title : マルッと巣ごもり

 

 

本日昼過ぎ、スーパーへ買い物。その前に緑多き公園ベンチで日向ぼっこ。座って5分後、突如奇声を発しながら5~6才の男児2人がもつれあうように乱走行。

マスクなしの口から怪鳥音キヤァーッ、キョァァーッ!! で私の組んだ足の膝頭に激突。蒼白となった私はサッと逃げる様にチャリにまたがりシッポを巻いてキャイィィーン!!。子供に近づく母親はシッカリとマスクをしている。

 

今日は魚のムニエルを作るつもりでスーパーで食材調達。何故作るつもりになったかというと、昨夜いつものように料理画像ばっか検索閲覧していて、妙にムニエルに心惹かれたからなのだった。

 

1⃣ こんな感じで購入デッス

手の平大のカジキマグロが3切れで560円。土付きベビーリーフは水洗い済みベビーリーフより40円も安いのデスネ。

 

2⃣ 切り身の水気をキッチンペーパーで拭きとりムニエル粉をまぶします。よく分からないままエリンギにもまぶしつけましたが、ほとんど付着せずデッス。

オリーブオイルを引いて弱火から中火、表裏とヤケと書かれておりマッス。

 

 

3⃣ サッと水洗いしたベビーリーフをカジキの上にナニゲに被せました。どういう意味があるのか自分に問いかけることもせず、そのまま放置ッス。

 

 

4⃣ 数分ごとに葉っぱかきわけカジキの焦げ目をチェック。数分してカジキとエリンギひっくり返し更に数分。焼き始めて5分くらいでアッけなく完成すまスタ。

 

 

5⃣ タルタルソースの素にマヨネヘズ50g(大さじ4杯)を加えて混ぜ合わせろと書かれており軽快にチャッチャッと混ぜ合わせ完成。

なかなかですぞ。高級地鶏とアワビのムニエルなんだと私の脳をだまくらかすことに成功。カジキはムチムチ、エリンギはプリプリ、ベビリは無意味ながら目に青葉しみる季節、という感じッス。

犬は何でも知っている / 犬の演技力考

Title : 全てを知っている何か

 

 

海外秀作映画の中で、時折、愛犬が飼い主に抱かれ、息を引き取る涙ナミダのシーンに遭遇する。

メグ(犬の仮名)は、薄れてゆく意識の中、飼い主を泣き濡れた瞳でチラ見し、弱々しく「クォ~ン」。そして帰らぬ犬となる。

観た人のほとんどは、メグの名演技にひどく感動し、感心する。だが、それ以上の事は何も考えないのが普通である。

私は考え、ガクゼンとした。海外映画やドラマに出演する犬の役者達について、空恐ろしい疑問を感じたのだ。

むろん、ここで言う犬の役者とはCGなど使用していない本物の実写演技をする犬達の事についてである。メグを代表犬として疑問点を幾つか挙げると、

1⃣ メグに、自分は架空の物語に出演した、という認識はあるのか “犬は何でも知っている / 犬の演技力考” の続きを読む

ぼっち、ぽっち、どっち?

Title : 雪山にいぬぽっちなセント・バーナード

 

 

誰しも、人から、きとるね、かなりきとるね、と言われるような人間なら、ひとつやふたつ、MY探求課題というものを心の中に温めている筈だ。私の場合、

 

ひとりぼっち

 

この課題だ。

ぼっち、って何。

どうゆうこと?。

その後、ふたりぼっち、という言葉を耳にして驚いた。

何それ。

そうゆうのもあるの?。

その後、暇なとき、寝ころんで天井をボンヤリ見つめながら、こう思う。

みんなぼっち

というのもありなのかな、と。

きみぼっち

とか

「わたしぼっちだから私」などと言う女性が次第に、明確に、そして強く眼に視えるようになってきた。

つまり、私はそんな偉そうな人間ではないが、明らかに

ぼっち

を捉えたような気がする。よく人が口にする言葉、あなたも口にしたことがあるはずだ。

「これっぽっち?」と。

ぼっち

ぽっち

両者には何かしらの関係があるのではないかと私は疑った。犬の名前に

ぽち

はあるが、

ぼち

はない。

だが、もし飼い主が飼い犬のポチに「ぼちぼち行こうか」と促したとしたら?。

あるいは、ポチが与えられた餌を見て「これっぽっち?」と思えたなら、

「ポチはこれっぽっち」ということが出来る。入れ替えれば

ぽっちはこれポチ

とも言える。つまり、ひとりぼっち、のぼっちとは

ぼちぼち行こうかと、かつて促されたポチの孤独を言い当てているのではないか。

ならば、ふたりぼっちとは

ポチが鏡を覗き込んだ時の状態と言えないだろうか。

 

 

Title : 鏡の中のポッチと向き合うボッチ2020Zの後ろ姿

呼び名のニュアンス / ネーミングで全てが決まる

Title : 銀河ネコか、宇宙ネコか

 

 

日本人は言葉のニュアンスにこだわる。いや、こだわっていた。かつては。

今は、それ程気にしない。言葉の響きからイメージを掻き立てる、という様なことに誰も関心を持たなくなった感さえある。

そんな事にこだわるのはウザイのかもしれない。ステキな響きなんていらない、別にウツクシクなくていいしー、かもしれない。

でも、やはり、日本人にはコケオドシ的なハッタリ・ネーミングは未だに通用していて面白い。例えば、

名作映画とされた『風と共に去りぬ』。タイトルを『風と共に去る』にするとトタンに三流映画の香り。「風立ちぬ」が「風が立った」もご同様。

「飛ぶが如く」と「飛ぶみたいに」では?。文学的表現と呼ぶべきか、こけおどしと見るべきか。

「天下人(てんかびと)」と「殿様で1番」じゃあねぇ…。

 

マリリンモンローの『お気に召すまま』が『好きにして』だったら?。だって現題の As You Like It 、丁寧表現てわけじゃないもんネ。

『アナと雪の女王』が『アナと女王』だったらヒット率はかなり落ちる。イントネーション、ゴロの良さがガクンと落ちてしまい、日本人は急速に関心が萎える。肩透かしを食らった感さえある。

 

ヒマワリで有名な画家ゴッホのホントの発音は “ ゴー ” なんだけど、それでいい?。

ショパンを日本人が得意なローマ字読みにしちゃったら “ チョピン ” だけど、ホントにそれにする?。

“ ティファニーで朝食を ” が “ ティファヌー ” でもロマンティックに酔える?。日本人はニホン人、ニッポン人。

 

日本人をごまかしケムに撒くのは結構カンタンだと思えてくる。コロコロ変わる日本の政党のネーミングしかり。

 

ネバー・エンディング・ストーリーとエンド・ストーリー / マイティドラゴンの頃

Title : 「アレッ?!、オレもしかして自力で空中浮遊してる?」

 

 

子供の遊び相手が龍だった頃、少年少女はその背中にまたがり世界中を駆け巡る事に思いをはせた。

小学1年生だった私は『エルマーと龍』という絵本に夢中だったし、その後、ピーター、ポール&マリーの ♫ パフ ♫ を好んで歌うようになった。パフも魔法の龍だった。

更にその後、映画『ネバー・・エンディング・ストーリー』ではファルコンという龍が少年を背に乗せる。

子供が夢を視なくなり、空想のおとぎの国は消滅しかかっている。不毛な現実の虚しさを子供達に思い知らせるために、虚無という名の狼がおとぎの国へ入り込んで来た…。

更にその後、映画『トイ・ストーリー』では、おさな児が成長し友達だったオモチャと決別する悲しみが切々と描かれる。

 

ここ日本では、油絵具で描く洋画より、日本独特の顔料で描く日本画の値段の方がバカ高い。何十倍もの価格差も驚きではない。洋画は西洋の猿真似で日本画は日本独自の物だから、という理由。

日本画では好んで龍がモチーフに選ばれ、有名寺の天井がや壁画への依頼が舞い込んでくる。そのギャランティーは非常に高額だ。

 

私には大きな疑問がある。

龍は空想の生き物。当然、作家は自身の想像で龍の姿を描くことになる。

日本画家の方々の描く龍は、みな同じ姿かたちをしている。

何故か。

昔の人が書いた龍をコピーしているだけだからだ。

う~ん。寺の屏風や天井画、日本画の龍、子供達は見ないもんねぇ。

 

だったら独創性はいらないのかな?。

いやぁ、映画ってホントに素晴らしいものですね / FRYDAY・NIGHT・FANTASY / 金曜ロードショー

Title : つらいDAY泣いと不安だじぇい

 

 

心おもむくまま、暇に任せ、自在にユーチューブ(音楽)サーフィンを楽しみつつ、知らなかった名曲発掘の戦利品に視聴泥酔いする。

昔のものは全て古臭い、昔のものは全て昔の人のもの、今の時代の人は今の時代の物しか関心を持たない。

という考え方にはまってしまう不運な人、

ではない人達は、

自由に伸び伸びと、少しでも見知らぬ良いものに触れようと選択肢を狭めず人生を豊かに自分を飾ろうとする。

 

♪ FRYDAY NIGHT FANTASY〈フライデー・ナイト・ファンタジー〉

1972年にTV放映開始、金曜ロードショー(日本テレビ、水野春郎解説)のオープニング・テーマ。リアルタイムでTV視聴することは出来なかったが、この曲を数年前に知り激しい衝撃を覚えた。

何と言う名曲。名曲とは、作った人、歌う人、演奏する人が誰なのか、それを全く考慮に入れず、どんな人でも心が打たれるもの、をいう。

 

ユーチューブに寄せられたリスナーのメッセージのほとんどは、

涙が止まらない、あの頃(昭和)がこんなに素晴らしかったなんて、あの頃は幸せだった、みんなありがとう、といったもの。

そんな感覚は平成だろうが令和だろうが同じだ、と言われるかもしれない。それはそうだが、

金曜ロードショーは、オープニング楽曲をピエール・ポルト(フランスの指揮者、作曲編曲家)に依頼した。フライデー・ナイト・ファンタジーは、既に発表済みの名曲で金曜ロードショーがそれを使った、と思い込んでいる人が大半であった。それほど唸る名曲だったのだ。

番組サイドは、安直で付け焼刃な気持ちで番組への取り組みをしていなかったことになる。流行りの人に右へ習えで作曲を依頼したわけでもなく、人生の重みを紡ぐ旋律、それを誰に依頼すれば実現出来るのか、結論へは遠かったはずだ。恐らく会議は難航しただろう。

高い依頼料が支払えるのは、高い視聴率によるスポンサーの満足度。

映画作品が今以上にステイタスだった時代、名作のイメージを会社のイメージに重ね合わせたいスポンサーは、依頼にGOサインを送り、賭けに勝った。素晴らしい名曲を新たに手に入れたのである。

 

いつからか、真逆の時代が開幕した。

いい加減な番組を安直に作り、結果、騙されない視聴者によって視聴率は地を這い続ける。遂には番組自体も消滅する。

 

ブラック企業はブラックを売りにし、消費者は不買運動すらしない。

CDも売れなくなればクリエイターの名曲を生み出す意欲は極めて説得力を失くす。

作曲家編曲家は、アドリブ一発で量産出来る、使い古されたコード進行メロディーを新曲と称して歌い手とファンに提示する。

それが問題なく受け入れられ、挙句、名曲だと騒がれる。

作曲家は、制作意欲も湧かず、面白おかしくもないものに溜息しつつも、楽して依頼をこなせる旨味には笑いをこらえきれない。

 

安直さの連鎖は、社会全体の底抜けを生む。

もう、誰にも止められない。

運試し / 金は天下の回りもの / 招福勝運

Title : 運貯めし~

 

 

時の経過。ただそれだけのことだ。新年に変わるのは。

当然のことながら、人間の操作など何ら関係もなく

日付は変わる。

新年になる。

いつもの12345678…という時の経過が、

突然、日本人にとってだけ年が明けるになってしまう。

明ければ、必ずおめでたいことになってしまう。そう決めつけられてしまう。

実際は、現実は、人の個々の幸福の所在は様々。

まあまあ、それは置いといて単なる挨拶だから。

そうはいかない。

現に、年賀状、今年は控えさせていただきます、というものもある。

郵政省を儲けさせるために年賀状をせっせと書いても世間の景気にはなんの影響も与えない。

今はもう違う。

金は天下の回りもの

というお人好しな感覚でいられる時代は終わった。

金は天下の回りもの、だが回るコースは誰かが決めている

待てど暮らせど何も来ない。という経験などない人こそ決めている人の側だ。

クリント・イーストウッドの映画『運び屋』の中で、主人公が言う、

「100才まで生きようとするのは99才の人間だけだ」

これが真実なのだ。10才の人間が100才まで生きる、と言っても良い。

ただ、言って良いだけで、事実無根は何ら変わらない。

1年1年積み上げるだけだ。年が明けるのは夜が明けるから。いまだ眠り続けている主体性の人にも明ける年。年は変わりはしない。

 

誰かの思惑で操られる。その他大勢さん、今回もシッカリやってくださいねー、などオシマイ。

調子いい時だけ自己責任と言われてもねぇ。何も考えずに、これまでそうだったからそうする、はお人好し、無知、おまぬけ。

運は天下の回りもの

でもない。福袋、初詣、どれも運が巡ることとは何の関係もない。

招福と運試し、は全く違う。縁起担ぎ、と招福も別物。

 

ないものねだり、継続。それが不幸を嘆く日々のコツだ。

 

Title : 本年もよろしく

年越しそば / 細く長く / 平べったく

Title : ゆくダシくるダシ

 

 

そばのように細く長くを目指して生きるか、うどんのように太く短く生きてゆくのか。

などと昔から例えられたものの、現在では極細うどんも出回っており、あまり例えられなくなってきたようだ。

きしめんのように生きる。が今の定番。太く長いものの、見る角度によっては細く長くでもあり、平べったいので隙間にも自在に入り込める臨機応変さをも持つ。

年越しそばなのかうどんなのかきしめんか、いずれにしても

2019年のうちに食べ始め、2020年に食べ終わる。

細かろうが太かろうが年はつないだ、分断されなかった、

という食べ方をする人は、今の流れに満足している人だろう。

 

大抵の人は2019年に食べ始め、2019年に食べ終わる。

つまり、年を越す準備であるそばを食べた、

今年と来年を繋いだわけではない。

夕飯もしくは夜食が麺類だった、ただそれだけの事なのである。

 

いずれにせよ、風邪などひかずに良いお年を。

 

Title : ゴンベさんの赤ちゃんが風邪ひいた

誓いの条件 / 3つのお願い

Title : 精米するブタさん

 

 

かつて日本経済が世界を席巻していた頃、お嬢様方はご自身の結婚相手となるためには “ 三高 ” を兼ね備えていなければならぬ、との通達を出した。高学歴、高収入、高身長…。

今、未婚の男性、女性は次なる結婚条件を広く世間に公示する。

心技体であること。すなわち、心がゆるキャラであること。技とは不当リストラされない独自の手に職、特殊技能を有している事。体脂肪が低いこと、この三位一体は何が何でも譲ることの出来ない必須アイテムなのである、と。

 

米を食すに米殻いらぬ ありのままなら それで良し

 

心技体。言うは易し、行うは難し。

メジャーリーガーのイチロー選手は自らのプライドにかけて自身に心技体を課した。その美しさには誰もが惜しみない拍手を送る。

人から一方的に押し付けられた心技体など絵に描いたモチ。会得のフリもすぐにボロが出る。