漆器に映える和食の色どり / 日の本の国の朱色 / 日本が誇る伝統工芸品

Title : 漆器にナムル飯〈大根、わらび、ほうれん草、もやし〉

 

 

再び、畠中昭一による栗の木漆塗りの一品。前記事の飯汁椀と同じもので色違いの朱色。

漆黒の黒に比べ栗の肌あい、木目が非常に鮮明。使い込むほどに栗の木肌の凹凸が五指にありありと伝わるようになるという優れもの。

写真の椀底、洗い残しがないように座の円形は非常になめらかに滑り込む工夫がなされている。つまり、溝を作らない。

現在、栗の木を用いた漆器職人はほとんど居ない(畠中昭一本人の弁)というのは残念至極。

 

いにしえより日本はこの朱色(古代朱と呼ばれる)を野山に配して目印とした。鳥居の木肌を守り武将の兜を浮き立たせる。

葛飾北斎の富岳三十六景、『赤富士』を思い出された方も多いはず。

スタンダールの名作『赤と黒』、赤は軍人を指し黒は僧侶を指した。対照的な赤と黒だが漆塗の黒と赤はそうではない。

漆黒の闇に昇る太陽が朱なのだ。

朱とは八百万の神であり、日の本、日本を指す。

迷いが吹っ切れ朝の陽ざしが訪れる時、朱は真っ新な白地に座している。

 

これが日本の国旗だ。

あくまで私見だが。

空中分解システム (20) / 破壊度数100

 

 

 

古きより日本には “ 言わぬが花 ” という美徳が在り、“ 不言実行 ” を拡大解釈して “ 男は黙って云々かんぬん ” 、“ 今は黙して語らず ” 等と自然発生社会告知、果ては “ 泣き言いうな、黙って云々かんぬん ” 。池田勇人ならずとも改めて言うなら、“ もはや戦後ではない ”。軍隊式を継続するは時代錯誤の極致、その口でグローバリゼーションを語るなかれと強く言いたい。

高度成長期、右肩上がりの経済成長で波に乗った日本は、猛烈生真面目気質をいかんなく発揮、一糸乱れぬ統率力をもって世界経済競争に打って出た。サイの目は大吉。次々に入る朗報に、日本人はすっかり期を逸してしまった。

何の期?。言わなければならない期だ。言うって何を?。

日本人は一人一人が血の通った人間で機械ではない。睡眠時間を削ってまで働き詰めて健康を害し、命を削って持ち家を手に入れる。悲しい事に持ち家には命綱がなく、主(あるじ)が重い病気でひとたび倒れてしまえば、一家には空恐ろしい災厄が降りかかる。主は企業戦士として生まれ企業戦士として死ぬ覚悟を誓わされる。

夢にまで見たマイホーム地獄を受験地獄のさ中にある息子や娘と分かち合うこともないまま、無意味なステイタスと訳の分からない存在意義の中で遂には壊れる。それを言わなければならなかったし、警告しなければならなかった。誰かが、力のある誰かが、それを全国民に向かって声を大にして言わなければならなかった。勿論、ボクの夢の中での話ではある。

実際には、現実的には、そんなことを言う権利が与えられている者など民主主義国家では何処にも居ない。それは公に向かって発せられるのではなく、個人個人が自分の大切な人に向かって言う言葉だったはずだ。だがしかし、いつのまにかその事実は軽んじられ、誰かの為に誰かが犠牲になることは極く当たり前の日常風景へと変貌してしまった。

長期好景気の中、道徳や美徳は鼻で笑われ、人々は経済的勝利に酔い、次々に落ちこぼれてゆく人々を横目で見ては又も決意を新たにする。オレは、ああならない、子供にもああいう末路は味わせない。妻も言うまでもなく同じ思いでいる。

別に構わない。それが資本主義国家というものだ。民主主義というものだ。本当にそれで構わないのだ。世論が支持し、多数決が大手を振るのは良い事だ。

つまりは、今に始まったわけではない。既に50年も前から人格が壊れ、壊され、心が潰れ、潰される人達は大勢いたのだ。インターネット不在で可視化が不十分だっただけのことだ。

かつてアスペルガーと呼ばれた症候群は、現在では自閉症スペクトラムが正式な医学用語。なるほど。かつての日射病、今は熱中症。日雇いなどとは間違っても呼んではならず、聞こえが良いニートならグッド。何故なら差別用語だからだ。差別用語を禁止し社会からことごとく根絶する。全くもって大賛成であり、そんなことは当たり前の話だ。しかしボクに言わせれば、差別用語の規定基準の線引きに問題があると言わざるを得ない。つまり、片手落ちではないのかと。

“ 自分探し ” “ 上から目線 ” “ 何様 ” などは立派な差別用語ではないか。自分を探す、自分が何者なのか分からない、つまり何も希望がない、夢がない、何も熱中出来るものがない、何をすれば良いのかさえ分からない。心はいつも空虚だ。こういう人々が極く普通の状態の人間であると見なす常識は不可解である。勝手に探してねー、ではなく社会全体の問題として取り組むべき課題でなければならないはずだ。先輩、先人の教えを学ばず聞かず、上から目線という言葉で人生の諸先輩を一瞬にして悪者に仕立て上げるこの日常。何故だ。これが本当の世論なのか。

空中分解のシステムは見事に完成した。

 

 

 

◆写真タイトル / 燃える様に美しい

 

 

 

★ネコならエッセイ / 当ブログのエッセイ文、写真、イラストの無断掲載、転用を固く禁じます。

 

 

空中分解システム(21) / 破壊度数100

 

 

 

夢を追うって、どんな夢を追えばいいですか。

色々チャレンジしろって、何にチャレンジすればいいですか。出来れば箇条書きにしてもらえませんか。お薦め順に書いてください、お願いします。

チャレンジするとして、どうやればいいですか。聞ける相手がいません。居ても知らない人とは話が出来ません。

やりたいことが有りません。付きたい職業も有りません。

 

「君(V)、空っぽなんだね本当に」

その言葉に激しく反応したVの真横に座る母親(O)、

「今のは失礼でしょう、いくらなんでも。アナタがカラッポって言われたらどんな気持ちがしますか。可哀そうじゃないですか」

「可哀想だ、可哀想だ、でずっと育ててきましたね。可哀想でなければそれで良かったんでしょ?。今のV君は可哀想なんて状態ではありませんよ。悲惨極まりなくカラッポです。……まあ、最後まで言わせて下さい。自分のことについて他人が指摘してくれたんですよ、空っぽだと。侮辱や侮蔑の言葉を投げつけるのは指摘ではありません、言葉の暴力です。

V君の再生を考える立場の人間がカラッポだと言う場合、それは侮辱ではなく指摘です。世間ではコレを ” 上から目線 ” と面白いこと言う人が居ますけどね。自分の内面の状態が指摘されたんですよ。指摘してもらえたんです。喜ばないでどうします。だって、誰もそんなの知るかの世界に生きてるんですよ、アナタの息子は」

「私の育て方が間違ってるように聞こえますけど」

「間違ってます、全力投球で間違ってますね。侮辱の言葉と指摘の言葉を混同する人が子供を育てればアヤフヤな知識を教えているということになるからです。挙句、アナタは責任を取り切れず、こうして医者でもセラピストでもカウンセラーでもない人間に相談している」

「………」

「私が間違っていました、とは言いにくいでしょう。V君と共にお母さんもこの際一緒に学ぶべきです。いま、息子と共に学ばなければ、V君が新生V君になった時、息子はお母さんの手の届かない天空へまで行ってしまいますけど、宜しいですか」

「それは…困ります」

「私が間違ってました、というのは抵抗があるでしょう。でも、これだけは今ハッキリ言って下さい。“ 訂正します ” と。今後、コレを使いまくって下さい。これまでより楽に生きられるようになります。これも言えなければお手上げです。言えますか」

「訂正します」

「V君は行列の出来る名店なら何処へでも行くそうだね」

「まあ…。することないし暇なので…。何時間待っても、暇だけは一杯あるので…」

「ボクには何もないって、味覚があるじゃないの。美味しい物食べてると満足感かなりあるの?」

「ああ…それぐらいは…いくらなんでも有りますね(笑)」

「それぐらいって、長蛇の列に何時間も並んで待てるなんて能力あるじゃない。ボクなんか5分待たされたらプイッて居なくなっちゃうよ」

 

可哀想、の考えの基に何もさせない。隠れているのが一番。いかにも女性らしい考えだ。女性本能だ。男は戦いを挑み負傷するが、戦いを放棄する女性は助かる率が異様に高い。その女性本能を男である息子に適用する誤り。最適だからと決めつけ男性に女性本能を宛がうのは大変な無理がある。可哀想の名のもとに経験を摘み取る恐ろしさ。恐ろしいと想像出来ないそのイマジネーションの無さが想像力のない子供を大人の入口にまで誘う(いざなう)。門前払いも知らず。

 

名店行列でぼんやり立ちん坊。30分置きに自然体で自分の顔の自撮りを指示。2時間待てば4枚写真が撮れる。並んでいる間、人々の後ろ姿を観察し、どんなささいなことでも、くだらないことでもいいからスマホのメモ帳に書き記すよう指示。

店内に座った直後も顔自撮り、注文の品が目の前に置かれ、それを一瞥した直後にも自撮り。食べている最中にも自撮り。食べ終わった数分後にも自撮り。撮影した自撮り写真は、運ばれた直後の料理写真と食べ終えた後の空ウツワ写真と共に、並んでいる時に観察したメモ書きと共にファイル保存。

 

半年後にファイルを閲覧させてもらう。

2人連れだと話が続かないが、3人連れだと話がまだ続くことが多い。

黙って待つ人が圧倒的に多いから、自分も浮いた感じにならなくて目立たないから気が楽。

などと書かれている。母親が気づいた。食べている最中の息子の目が一番生き生きとしているような気がする、と。食べ終わった後も、いつもの変な緊張感が少し無くなっている気がする、と。

 

V君はこれらの指示を実行し続けた。ただ淡々と機械的に。指示の実行は面白くもなければ、つまらなくもない。億劫でもなければ、増えてゆく写真コレクションに全く関心もない。心は虚ろ。味覚は充実。

半年後、名店長蛇の列に母親も参戦、二人で並び待つことに。自撮り写真を母親も行う。特段、仲がこれまでよりも良くなったわけでもなし、悪くなったわけでもなし。指示された通り、親子の自撮り写真は毎回並べて比較できるようにフォルダ保存。互いのメモ書き内容は似たり寄ったり、何の面白みもない。毎回同じ文面に2人そろって辟易で丸一年が終了。

2年目の春先。在る時、魚の煮魚を食べていた母親がひとこと。

「これくらいならワタシの方が上手よね」「えー、ホントに」

V君は母親の魚煮付を食べたことがなかった。魚の煮付は嫌いだったからだ。しかしそれは小中学校時分の話で、24歳の今は魚煮付けが普通に食べられるようになっていた。そんなわけで2人は自宅に戻り、母親は早速その日のうちに名店と同じノドグロなる魚を使って煮付を再現。

 

それから2年後、V君は自分が作った魚煮付料理の店を自宅にオープンした。ボクはこれを予測して指示したわけでも何でもない。ただ、きっと何かが変わることを知っていただけだ。

 

「お客さんを待たせないことに気を使ってます」

 

確かに美味しい!

 

 

 

◆写真タイトル / 行列

 

 

 

★ネコならエッセイ / 当ブログのエッセイ文、写真、イラストの無断掲載、転用を固く禁じます。

 

漆の器で日本人を実感 / 高級感漂う和食器の王道 / 麗しの漆黒

Title : 豚汁と鰹のタタキ

 

 

漆。うるし。漆塗り。漆塗りの器(うつわ)。漆の器を知らずして和食を語ることなかれ。余りの軽さに驚嘆する漆の器は使用者が高齢になった時にこそ威力を発揮するのだろう。アツアツの料理を冷まさず、器を持っても熱さを感じない。

漆黒の闇、と評されるほどウルシの黒は深い。スターウォーズのダースベイダーの仮面は漆塗りに違いない。暗黒界を制するダースがウルシを知らぬ訳はない。ダースがスターウォーズ第一作出演前、極秘のうちに来日したことと関係があるとしか思えない(ウソウソ)。

写真の器は栗の木に漆を塗ったもので、使い込むほどにツヤが増すと言われる栗の木漆職人、伝統工芸士の畠中昭一、匠の手による越前漆器。一器18000円で購入。

安価な食材も漆の器に盛り付ければこの通り、大層なご立派さ。

川柳の役割を担っていた歌謡曲 / 消滅したメッセンジャー / 大ヒット曲のない時代

Title : どうしマウス?

 

 

遠い昔から、庶民が生活のあらゆる題材をモチーフに川柳を詠まずにはおれなかったように、戦後生まれた歌謡曲なる流行歌は、意図せずして日本人の聖書的道しるべとなり得る重要な役割を担った。

例えば、経済大国目指しヒタ走る狂喜の沙汰ともいえる企業戦士達の時代には、

♪ およげタイヤキくん

が大ヒットする。トタン屋根の上のネコよろしく、日々鉄板の上で焼けつくような悲鳴を上げるタイヤキであるところの労働者達。店のオジサンであるところの上司とケンカして、海に逃げ込んだタイヤキ社員は脱サラ、落伍者をほのめかしている。

結局、釣り人のおじさんに釣られたタイヤキは食べられてしまう。明らかにこの詞には警告の意味合いがあり、そのメッセージは日本中の労働者達に、いましめとしてクサビのごとく胸の奥深くにまで打ち込まれたのだった。

 

三種の神器を入手すべく、物欲爆発起爆装置であるところの高度成長期には、ウワッツラだけではいけません、愛する人も大事にネ、などと逆説的な

♪ 骨まで愛して

が大ヒットする。何にもいらない、欲しくない、あなたがいれば幸せよ、とけなげに歌う女性は水商売の女性であったり専業主婦であったりするのであろうが、どちらにせよ女性の社会的地位が非常に低かった当時の雰囲気が歌詞から匂い立ってくるようだ。

バブルお祭り騒ぎの時期は、ようこそここへ、遊ぼうよパラダイスなどといった歌詞が浮かれ爆発したし、高齢化社会に至っては、千の風になってが大ヒットした。つまり、大ヒット曲とはその時代時代の日本人の総意であったのだ。それが大前提であったのだ。

それが終わった。

それはもう終わった。

もう川柳的歌謡曲はほとんど存在しなくなり、以前のような本物の列島全土を通り抜ける疾風ヒット曲は姿を消した。

日本人を一丸と出来る統一メッセンジャーであるところの歌謡曲は衰退した。バイブルなき社会は民族の共感スローガンを失った。

笛吹けど踊らない。

今この時、てんでバラバラとなった日本人達は、唯一の利点である一枚岩主義を見失い、流転の憂き目を知ってか知らずか空虚顔。

 

恐らく、この先も修正はないだろう。

あるカウンセラーのカルテ / / 無い袖はふれない / 従えない性分

 

 

 

「最近は昔に比べて話をしてる人が少なくなりましたね先生。街でも電車の中でも…。華やいだ声なんて滅多に聞きません。一体どうしてしまったのでしょう」

「それがアナタの、当面の悩みですか」

「そういう訳ではありません……。ありませんが、気になる事だけは確かですね。“ 人のふり見て我がふり直せ ” という有名なコトワザから推察しますに、皆さん、周りが全員喋れないふりをしているので真似て喋らないのでしょうか。それが次第に連鎖拡大しているという様にも感じられてしまうのですが…」

「アナタも職場などで、皆さんに倣って(ならって)いるのですか」

「いいえ。私は “ 無い袖はふれない ” タイプですから、ふりは出来ません。従えない性分です。振るのもふりをするのも私にとっては同じこと。揺れていて自分が安定出来ないのですから。ゆえに浮いてしまい行き詰ってしまうのです。ですから今ここで先生とお話をする状況になってしまったのです」

「人間がすくうのは祭りの金魚すくいやドジョウすくいだけではありません。人間を救うことも出来ます。私はそれを信じてカウンセリングを行っています。一見違うように思えるかもしれませんが、すくい上げるのと救うことは大して変わらないのですよ。火事現場から人を救出する消防隊員だって人を抱き上げて戻ってきたりするでしょう。すくい上げる形に似ています。ハンモックでくつろいでいる人も抱きかかえられているような体形をしているでしょう。救出というのは結局、すくい上げるということなのです。極めてシンプルな行為なのですね」

「そうでしょうか。その状況次第でで変わるように思えますが。常に人をすくい上げて救出するというのはチョット…。無理があるような気がします」

「お母さんが赤ちゃんを抱っこするでしょう。あの行為、実は赤ちゃんをすくい上げているんですよ。赤ちゃんを救出している最中の行為なんですよ」

「初耳です。全く理解が出来ません」

「金魚すくいでは、乱暴に金魚をすくい上げることは絶対に出来ません。薄紙がいともたやすく破れてしまいます。何匹も次々にすくい上げるチャンピオンは金魚すくいアミの丸縁に金魚の体重を乗せて、ほとんど紙を水で濡らさないのです」

「それが、一体何だというのでしょうか」

「水が周囲の人。薄く弱い紙がアナタ。紙が張られた〇骨がアナタの愛です」

「私の愛?」

「そうです。赤ちゃんを抱いているお母さんの両腕です。それさえシッカリしていればアナタは水に破れず、またアナタも金魚という大切なものをすくい上げることが出来るのです。アナタが毎回ここへ来る目的はしっかりとした〇枠を、お母さんの両腕を、作るためです。鍛えるためです。愛を育てる枠を鍛えるためなのですよ」

「なるほど、分かりました。先生、私に是非それをご伝授願います」

「もうしています」「え。いつですか。そういう認識はありませんが」

「アナタは毎回ここへ来ています。一生懸命話してくれますね。それが鍛えているということです」

「その程度で愛が鍛えられたりするのでしょうか」

「話せばやがて分かります。相手が自分より強いか弱いか。アナタには2つの選択肢が出来ます」

「強いと思えば無用な戦いをせず逃げる、で1つ。弱ければ倒す、で1つ」

「違います。弱いと思えば相手を守る気構え。強いと思えば相手を守る気構え。この2つです。守り方は違いますが」

「自分より強い人を、何故弱い私が守れるのですか」

「同じ人間だからです。相手はアナタより強いですが、アナタより弱いのです」

「意味が分かりません。プロレス・ファンなので断言出来ます。強いか弱いかです。でなければ勝負がつきません」

「プロレスの試合のテーマは愛ですか」

「いいえ。誰が一番強いかです」

「人間社会もそうですか。アナタは女性や子供を相手に、誰が一番強いか戦うのですか」

「そんな、まさか。常識はわきまえています」

「常識は愛を主体に作られます」

「ですが現実的に、この世の中、常識は愛を主体に置いていないと思います。それに都合でコロコロ目まぐるしく変化しているような気さえします」

「そうですか。それは常に意識する、という常識ではありませんね」

「非常識です」

「愛を信じない世界を見たことがありますか」

「はい」

「アナタから始めようと、ここで話をしています」

 

 

◆写真タイトル / ただ今、充電中

 

 

 

★ネコならエッセイ / 当ブログのエッセイ文、写真、イラストの無断掲載、転用を固く禁じます。

煙草パッケージ警告文の表示変えを考える / 他に考えなければならない事

Title : さふとくりひむマン、アイスクリームを笑う

 

 

小耳に挟んだのであるが、政府が煙草パッケージの喫煙肺気腫警告文文字を更に大きくすべく検討に入るというではないか。そんなことにいちいち時間を割いて税金を使うとは如何にも我が国、オリンピック時来日する外国人にどう思われるか心配なので、ということらしい。

そんな外面(そとづら)気にするんだったらサー、

目〇〇鼻〇〇を笑う

って例えがありますでしょう?。この下品極まりない例え、昔ッから使われてるみたいなんだけど、一体どこの誰が考えたの?。今だに使う方も使う方だよ、こないだなんかレストランで山の手夫人風なお方が使っててビツクリしちゃったね。

蚊が蠅を笑う、の方がまだマシですね。

批判するなら代案出して、が日頃口癖なワタクシなので新しい例え考えました。

カレイ、ヒラメを笑う

どうでしょう。四方を海に囲まれた我が国らしい寿司ネタ的例え。どう考えても一般の人々は高級ヒラメよりカレイを口にすることの方が圧倒的に多いと考えましたのでカレイの方を頭に持ってきました。他の候補として、

粒アン、こしアンを笑う

いかがでしょう。カレイやヒラメより一層親近感のあるこの例え。両方共に却下された非常事態に備え、補欠も用意してみました。

コンニャク、糸コンニャクを笑う

納豆、甘納豆を笑う

変わったところでは、

社員、ベースアップで笑う

来年の話をして、鬼が笑う

などです。参考にしていただければ幸いです。

離婚歴三回 / 好きだった人 / かぐや姫楽曲に見る具体的歌詞の在り方

Title : あのねぇ、吸水性の高いこの手ぬぐい、二枚目なの

 

 

近年のJポップ楽曲歌詞に見られる残念な傾向、という前日の投稿記事の補足参考として、具体的な要素満載の歌詞、その典型例を紹介したいと思う。

共に ♪  なごり雪 ♪ で知られる伊勢正三作詞によるもので、南こうせつとかぐや姫というグループ名になる前の作品。つまりは無名に等しかった初期の作品である。

 

 

離婚歴三回 歌 / かぐや姫

 

冷蔵庫の様に冷たくて  カツオブシのように堅くて

針金の様に細くて  ゴキブリの様に忙しく

健さんのように強くて  カマキリの様に恐ろしい

彼女が最初の奥さんでした

 

ざるそばみたいにさわやかで  キャバレーのようにあでやかで

蛍光灯みたいに明るくて  クリープみたいに色白で

ふんどしみたいにかろやかで  かぐや姫みたいにグラマーな

彼女が二度目の奥さんでした

 

長嶋さんのように燃えやすく  茶碗蒸しの様に冷めやすく

入れ歯の様に味気なく  出前の様にじれったく

タクシーの様に憎らしく  天気予報の様にあてのない

彼女が三度目の奥さんでした

 

 

勿論、今の時代に聴くと問題である言い回しや表現が多々見受けられるが、この時代(1970年入口あたり)には何の問題にもならなかった。

自分はその人(歌中の恋愛対象相手)の事を良く知っているから聴く人にも思いが伝わるだろー的な独りよがりな歌詞に満ち溢れる昨今の楽曲。作り手の思いなど説明してもらえなければ赤の他人である私達に伝わりっこない。

怖い人だった、だけではどう怖いのか全く分からない。ゴキブリの様に、カマキリの様に、でアアなるほどね、と初めて伝わるのだ。

人に真意が伝わらない歌詞は歌詞ではない。独り言の呟きでしかない。

 

 

 

 

◆ 好きだった人

 

好きだった人  ブルージーンをはいていた

好きだった人  白いブーツをはいていた

好きだった人  ステテコもはいていた

好きだった人  Tシャツが似合ってた

失恋という言葉は知ってたけれど

失恋という言葉は知ってたけれど

 

好きだった人  金魚すくいがうまかった

好きだった人  ヤクザ映画に誘ってくれた

好きだった人  アベレージが102だった

好きだった人  ハンバーグを食べていた

失恋という言葉は知ってたけれど

失恋という言葉は知ってたけれど

 

好きだった人  強がりを言っていた

好きだった人  一度だけキスしてくれた

好きだった人  レモンをかじってた

好きだった人  海を見つめて泣いていた

失恋という言葉は知ってたけれど……

 

 

好きだった人がジーンズをはき白いブーツをはいていた。ハンバーグを食べレモンをかじっていた。別段どうということもない、ごくごく普通の事、その一つ一つが強烈に目に焼き付く。しみる。何度も思い出す。好きな人のことだから。

人を好きになる事の不思議。

こんなに簡単な言葉でそれを素直にさりげなく伝えてくれる。アア、歌っていいな、と聞き手側も素直な気持ちになれる。アア、自分が失恋したあの人はどんなだったっけ…と思いをはせ、その時のことを思い出してみたりもする。

カレシの場合はカレーをよく食べてたなァ、だとかディズニーランドに誘ってくれたァー、とかね。

 

近年のJポップ楽曲歌詞にみられる残念な傾向 / 具体性を無視した歌詞

Title : プライバシー保護の観点からッショ!

 

 

最近の日本の楽曲歌詞を聴いているとトマドイを隠し切れないワタクシ。

例えば、アメリカの楽曲を聴いていると、歌詞中の主人公が男であれ女であれ、クラブに行ったらどうしたこうした、恋愛したら相手がああでこうで、という具体的な描写が当然のことながら羅列される。必然なことながら具体的なので主人公の心情や環境下の状況も察しがつき非常に理解が容易い。

日本の楽曲歌詞の近年の傾向として言えることは、主人公の生活感がほとんど描かれていない事。特に具体的な事例、エピソードなどは創り手の眼中にないようだ。

よって歌詞の中の主人公は非常にあいまいで抽象的すぎて存在感が希薄、

これ誰のことなのかな?、自分の事を歌っているようでもあるし見知らぬ誰かの事を空想して自分に当てはめて、これワタシのことです、と言っているような奇妙な感覚にとらわれてしまう。

お金の話は絶対に歌詞には登場しない。何で儲けたとか、この指輪スゴイだろう、みたいなのはお下品だと言いたげに完全無視。純愛から発生する性欲的な事柄も絶対タブーの封印をしているとしか思えない。

お金の歌詞だろうが性欲の熱情だろうが、歌詞の作り方で崇高、気高い、スマート、心地よい、いくらでもオシャレに出来るしスタイリッシュにも可能。要はそういう能力がないだけのことなのかもしれないが。

CDが売れない時代 / コンサートライヴ全盛の時代

Title : 一列に並んでゆっくりお進みください

 

 

日本国に於いて、音楽CDが全く売れない、は誰もが知る常識。

CDが売れないというのであれば、後世に残るような名曲を書こうという作詞作曲提供者側の意欲は、レコード購買購入全盛時代に比べればほぼ見る影もない。

ゆえに、ふた昔前(10年はひと昔)のように、その年のヒット曲は国民誰しもが知っている、といった夢のようなお話は今や全く存在しない。

ミュージシャンや歌手はステージでお金を稼ぐしかない時代へ突入した。しかし案外これがイケる。新しき世代はパフォーマンス・ライヴの渦中に自分自身が存在している、というただそれだけで激しく盛り上がり、次から次へとコンサート巡りに熱中するので各地会場は笑いが止まらない。

演奏レベル、アレンジ、楽曲のオリジナル性、歌詞やメロディーラインのレベルなどというものは2の次3の次4の次5の次といった傾向が確かに存在している。

別段そのことが悪いなどと言うつもりなどない。ただ今はそういう時代なんだと言いたいだけだ。では何故そんな分かり切ったことをわざわざ書いているのかと言うと、極めてレベルの高い、一過性ではなく、後世に残るような楽曲に巡り合える機会が極度に少なくなってしまったと嘆きたいだけだ。

 

話は違うが、ひとつだけ常に違和感を感じることがある。

よくコンサート・ステージでボーカルが観客に向かって、

「てめぇら、ボケッとしてんじゃねえぞ!、オラ、声出せ声ぇーッ!!」とお馴染みのマイクパフォーマンスを仕掛けると、どの場合も大抵イェーイ!!という従順な賛同声が返って来る。

これは上から目線と見なさないんだねぇ…。ふぅぅん…。変なの。