身体の痛みと心の痛み / 私は泣かない / 寄り添う人になる方法

Title : コダワリ

 

 

「私は誓う!。どんなに悲しくても二度と涙を流さないと!」

などというセリフ、おそらく聞いたことのない人がいないほど、ドラマや映画ではキーワード。しかしながら、

「私は誓う!どんなに恐ろしくても二度とオシッコをチビッたりしないと!」というのはほとんど聞いたことがない。

恐ろしいモノ体験といえば、キモダメシ(肝試し)にお化け屋敷。自分が恐怖を目の前にしても平気で居られるよう、心構えを強く抱いて(いだいて)屋敷にはいる人はまず居ない。

何故なら、怖がるのが楽しい、それがお化け屋敷だから。

にしても、恐怖というものは自分の意志で抑え込むことが出来る感情なのだろうか。

デビュー戦にのぞむボクサーは恐怖で全身が硬直するという。百戦錬磨になると恐怖もさほど感じなくなる、と聞く。つまりは慣れた。克服した。

 

人が肉体的に痛みを感じるのは、自分自身の身を守るために肉体が創り出したシステム。

激熱のヤカンに触った瞬間「アジャァーッ !!」と叫んで手を離す。痛みを感じて手を離したからこそ大ヤケドには至らない。

つまり、肉体が痛みを全く感じなくなったら大変なことになってしまう、ということ。

全身麻酔がこれに当たる。切り刻まれても気が付かない。痛みゼロの手術は正当だが、激痛バロメーターが機能しない戦士は間違いなく短命だろう。

肉体と違い、心の痛みには、かなりの個人差がある。

出産を経験する前提で作られている女性の身体は男性のソレより痛みに強い、などと肉体の痛み感度も性別差まであるが、

心の痛みは個人差が激しい。

失恋して自暴自棄になったり、果ては命を絶ったりする人もいれば、ケロッとしている人もいる。

平気な顔してるのは本気で好きじゃなかったからだろう。と言われたりするが、本人は本気だったと力説したりする。誰も信じないが。

初めて犯罪を犯そうと決め実行する直前、強烈な恐怖を感じる。それが普通。回数を重ねると感じなくなる。人間は慣れる様に出来ているからだ。経験、学習で脳がその行為に慣れる。慣れてしまう。

こんなことに慣れてしまっていいのだろうか?。

と私達は首をかしげる。

肉体的、精神的、に痛みを感じなくなる。苦痛を感じなくなる。

想像すると素晴らしく楽だろうと思える。

苦しくない、怖くない、痛くない、恐ろしくない。のだから。

 

例えば、悪質なウィルス系の風邪をひく。身体が異常な熱を体外に発散して、体を冷やそうと汗をかく。大汗かいて熱を冷ます。猛暑日、犬は舌を出しっ放しにして熱を体外に発散する。

悲しみの涙、嬉しさの涙、感動の涙。このシズクは一体何を発散しているというのだろうか。

暖かい心の人。という言葉が在る。冷たい心の人。という言葉もある。

心にも平常温度という規定があるのだろうか。

であるならば、感情を揺さぶられて流す涙は、

心の熱を発散しているのか。

体温計は在るが、心温計はない。

物理的な心温計はないが、人の心のヌクモリは、それに触れた人が感じるものだ。

 

私は泣かないと誓う。

一見、正しいように聞こえるが果たしてそうだろうか。

すぐ泣かない。恐がらない。傷つかない。落ち込まない。メゲない。それは、確かに強い人と言える。いい意味でも悪い意味でもリーダーになれる人だろう。

多くの野球の監督が口を揃えて言う。

「一番許せないのは、バットを一度も振らずに見逃し三振すること」

 

社会が、世間が、それが怖いから外出せずに引きこもる。恐い思いをしたくないからストーリーのラストをあらかじめ聞いておく。

自分をおびやかす自分の感情から徹底的に逃れ、それを極力出さないように努める。心の逃避と言えるし、心の否定とも言えるし、それが最善の対処法である場合もある。

泣いたことのない人は、泣く人の気持ちが分からない。頭では理解出来ても、痛みを切々と感じることが出来ない。

大したことない、とその人に告げるのか、寄り添おうとするのか。

 

寄り添う。

 

お金儲けのことだけで頭は一杯、会場変えると言われ大慌て、時間変更しますと今頃言い出す。他人の痛みや苦しさを我が身のように感じられない政治家は一体どんな舵取りをするのだろう。

そして一方、

 

日本の太陽は粛々と繰り返す。

 

寄り添う。

エキスパートのママ / 無いものねだりのボクに捧ぐホロ苦いラード

Title : それでも明日になれば

 

 

ボクが、無い物ねだりとと知らず、まるでピエロのように自分探しに駆け回ったのは、

ママが、“ ボクのボク ” を、ボクのヨダレ時分に根こそぎ引っこ抜いていたことを知らなかったからなんだけど、

自分に何一つ発言権のないボクでさえ大人には成るんだから、社会に出る機会のある大人なら否が応でも気づいてしまう好都合な真実ってものがあるんだね。

ボクの就職面接日、ボクはママの付き添いで会社にノコノコ出かけて行った。試験管は頭が悪いらしくてボクの面接にどうしてママが受け答えするのか理解出来ないって怒ってた。

バカだな。ママがボクなのに。

ママがボクの代理だって思い込んでるんだ、あの試験管。世間知らずの典型だな。

ママがボクの年頃だった頃、世の中は好景気で未来はバラ色だったんだ。オイシートコドリがいくらでも出来たんだって。そのヤリクチはママが全部知ってるんだから、ボクよりエキスパートのママが面接受けるの当たり前でしょ?。

モンスター親のママがブラックとホワイト変幻自在な企業と渡り合ったらドーなると思う?。

で、ボクは晴れて入社した。入社式翌日から自宅勤務。ママは非公式な課長に任命されボクの代わりにPCで仕事の指示を受けてるみたい。ボクにはチョットむずかしいって判断した業務内容は全部断ってくれるからボクは楽チン。

至れり尽くせり、介護度数100%のママ。

 

ボクにはとってもそんのこと出来ないよ。ボクがいくつになってもね。

そ、これがぼくのラード。違うって、バラードじゃないよ。ラード。こびりついて厄介なラードなんだってば。

暗がりのブースに座る人 / 平たい顔族の憂鬱

Title : 「んッ?!、今なんか言った?!」

 

 

令和のコンニチ今日も、相変わらず我が国の人々は

イケメン美顔を神信奉し、ブスフケ顔劣化顔を全否定する。

 

♬ ブスにもブスの生き方がある

〈作詞・歌 / まりちゃんズ 作曲 / 尾崎純也〉1974年発売

 

この世は美しいものと 醜いものとで 出来ている

醜い女を人々は ブスと名付けたのだ

ブスよ あなたは いるだけで 皆に迷惑かけている

明るい所は歩かずに 人目を避けなさい

ハッキリ言ってしまえば 男はブスが嫌い

君らの顔は見ただけで 吐き気をもよおす

ブスよ みじめだろうが 自分の顔を認めよう

あなたにゃ幸せこないけど

望みだけは持とう

 

要するに、日本人の幼稚なイジメ思考は今と何ら変わらず昔からあった。この歌、作詞者は名前出してないんだね。へえ。

男は自分の事を棚に上げ女に言いたい放題、は男尊女卑時代劇による洗脳。だがこんな歌もある。

 

♫ ケメ子の歌〈作詞作曲 / 馬場祥弘 歌 / ザ・ダーツ〉

1968年2月1日発売

 

私の名前はミス・ケメ子 あなたは鏡を持ってるの

吐き気をもよおす その顔で 私を好きになるなんて

キライ キライ 私はあなたが嫌いです

〈一部抜粋〉

 

 

一般庶民に全国向け発言権アイテムがなかった時代に於いては、この場合、レコード会社が社会への供給役を買って出た。

放送禁止も話題性、少しでも売れりゃ儲けもの。社会的バッシングなどたかが知れていた。

まりちゃんズは、2008年には名前を変えて藤岡藤巻とし、大橋のぞみとのユニットで崖の上のポニョ(宮崎駿監督)主題歌をヒットさせている。

さすがは女性に人気のある宮崎作品、まりちゃんズ時代の女性蔑視を評価したのだろう。反社会的勢力ってわけじゃなし。

そして30年後、

 

♫ ブスの唄(ブルース)〈桃井かおり / 歌 佐藤博 / 作詞作曲〉

2004年2月25日発売

 

2 ブス 喜んではいないけど

ぶす 怒ってなんかいません ただ

女に向かって ブスという様な あなたのブスさが許せないの

いつかある日 あなたの顔に

消えない汚点が 浮かぶでしょう

母親達は あなたを指して 子供達にそっと耳打ちします

ホラ、あれがブスだよ

 

残念ながら、世の母親達はそんな風には耳打ちしなかったようだ。

小国列島、本日も晴天なり。モラルに一点の曇りなく進化進展なし。

テルマエのアベちゃんが言う、平たい顔族(日本人を指して)の我々は世界各国の人々の前で、やはり今回も、ルックス批判を止めないのだろう。自分達のことは棚に上げて平気な人達だから。

いやぁ、映画ってホントに素晴らしいものですね / FRYDAY・NIGHT・FANTASY / 金曜ロードショー

Title : つらいDAY泣いと不安だじぇい

 

 

心おもむくまま、暇に任せ、自在にユーチューブ(音楽)サーフィンを楽しみつつ、知らなかった名曲発掘の戦利品に視聴泥酔いする。

昔のものは全て古臭い、昔のものは全て昔の人のもの、今の時代の人は今の時代の物しか関心を持たない。

という考え方にはまってしまう不運な人、

ではない人達は、

自由に伸び伸びと、少しでも見知らぬ良いものに触れようと選択肢を狭めず人生を豊かに自分を飾ろうとする。

 

♪ FRYDAY NIGHT FANTASY〈フライデー・ナイト・ファンタジー〉

1972年にTV放映開始、金曜ロードショー(日本テレビ、水野春郎解説)のオープニング・テーマ。リアルタイムでTV視聴することは出来なかったが、この曲を数年前に知り激しい衝撃を覚えた。

何と言う名曲。名曲とは、作った人、歌う人、演奏する人が誰なのか、それを全く考慮に入れず、どんな人でも心が打たれるもの、をいう。

 

ユーチューブに寄せられたリスナーのメッセージのほとんどは、

涙が止まらない、あの頃(昭和)がこんなに素晴らしかったなんて、あの頃は幸せだった、みんなありがとう、といったもの。

そんな感覚は平成だろうが令和だろうが同じだ、と言われるかもしれない。それはそうだが、

金曜ロードショーは、オープニング楽曲をピエール・ポルト(フランスの指揮者、作曲編曲家)に依頼した。フライデー・ナイト・ファンタジーは、既に発表済みの名曲で金曜ロードショーがそれを使った、と思い込んでいる人が大半であった。それほど唸る名曲だったのだ。

番組サイドは、安直で付け焼刃な気持ちで番組への取り組みをしていなかったことになる。流行りの人に右へ習えで作曲を依頼したわけでもなく、人生の重みを紡ぐ旋律、それを誰に依頼すれば実現出来るのか、結論へは遠かったはずだ。恐らく会議は難航しただろう。

高い依頼料が支払えるのは、高い視聴率によるスポンサーの満足度。

映画作品が今以上にステイタスだった時代、名作のイメージを会社のイメージに重ね合わせたいスポンサーは、依頼にGOサインを送り、賭けに勝った。素晴らしい名曲を新たに手に入れたのである。

 

いつからか、真逆の時代が開幕した。

いい加減な番組を安直に作り、結果、騙されない視聴者によって視聴率は地を這い続ける。遂には番組自体も消滅する。

 

ブラック企業はブラックを売りにし、消費者は不買運動すらしない。

CDも売れなくなればクリエイターの名曲を生み出す意欲は極めて説得力を失くす。

作曲家編曲家は、アドリブ一発で量産出来る、使い古されたコード進行メロディーを新曲と称して歌い手とファンに提示する。

それが問題なく受け入れられ、挙句、名曲だと騒がれる。

作曲家は、制作意欲も湧かず、面白おかしくもないものに溜息しつつも、楽して依頼をこなせる旨味には笑いをこらえきれない。

 

安直さの連鎖は、社会全体の底抜けを生む。

もう、誰にも止められない。

自分に聴かせる恋歌 / 光莉の青春アーケード

 

 

 

色褪せたまぼろしが 夕暮れを染める部屋

私の指先が震えても くちづけは拒まないでね

あなたを抱きしめても 私を抱きしめても

同じだけの夜を重ね 同じだけの羽根をむしる

くちづけのまま だからこのまま 物語を閉じて

 

指先をからめれば 秘密には遠すぎる

この腕を重ねても 恋人は裏切るけれど

哀しみが舞い降りて かたわらに巣を作る

冬枯れた嘘をなぞり 同じだけの憂いあげる

くちづけのまま だからこのまま 物語を閉じて

 

歌い終え、エンディングかき鳴らすハミングバード(アコースティックギター銘柄)のスリーフィンガー(ギター奏法のひとつ)が凍える指先、ぎこちない旋律を醸し出す。

“ いいや、どうせ誰も居ない。…なんて考えちゃだめ、そんな考えじゃプロになんか成れっこないんだからネ ”

演奏が終わると同時、遠いところで引きずり下ろされる商店シャッター音が光莉(ひかり)の吐く真っ白な息を僅かにブレさせた。

“ 歌の終わりと同時なんてさ、アタシの歌を聴いててくれたのかな ”

そうでないこと、自分で一番よく分かっているくせに。いつもの自分向け速報が光莉(ひかり)の耳元で意地悪に呟く。18歳の少女は鼻をひかえめにすすると、足元のギターケースの中に転がる50円玉を拾い上げようとした。2月の寒さで冷え切った指はそれを不可能にしたようだ。無理に小銭をむしり取ろうと枝に舞い降りたフクロウの様に指を曲げた時、人差し指関節に軽い痛みが走った。

「もう、や!…」

言いかけ言葉を力づくで飲み込む。彼女の茶色いセミロングが一瞬左右に翼をひろげたかと思うと、それはたちまちストンと落ちた。光莉はしゃがみ込み、二度の夏休みバイトで買った宝物のハミングバードをそっとケースにぎこちなく収納する。バチン、バチンと留め金を二つかけたところでスッと商店街アーケードの明かり半分が消えた。

“ 残り半分が消えるまで2~3分。急がなきゃ ”

光莉は自作の曲が書かれた楽譜と楽譜立てを大きなバッグに慌ただしくしまい込み、たまらず両手に息を3回吹きかけると大きなバッグを肩に掛け、ギターケースを注意深く持ち上げた。どんなに寒くてもファンが数人待っててくれるかも。凛とした寒気の中で自分の声がどんな具合に響くのかも確かめたい。二月になってから全然歌いに来てないし…。

全ては当て外れ。誰1人として立ち止まりはしなかったし、彼女の声はいともたやすく夜のとばりに負けた。響きもせず伸びもしなかった。

“ 何だよもう~。あそこの角のオデン屋は一本100円なんだよぉ~ ”

さっきジーンズのポケットにねじ込んだ50円玉は光莉が演奏前に置いたサクラだった。光莉は歩き出し口笛で自作の歌を拭こうとしたが、吹けなかった。音が出ない程身体が冷え込んでいる。たった1時間でその有様。薄着過ぎるのだ。それも秋服。

“今夜は何処に泊まろう…。またカズちゃんち…。一番言いやすいけどこないだ止めてもらったばっかだし…どうしよう…”

夢は手なずけられない。スキを見せれば噛みつかれる。光莉はそれに気づき始めていた。まるで大人になろうとしている様に、見える。

 

 

◆写真タイトル / 観客

 

 

 

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増殖する過剰防衛 / ひとつだけの物の見方 / 損する生き方

Title : ゴメンねダーリン

 

 

深刻な便秘で死ぬ可能性のある赤ン坊。我が子のおしりに鼻先を突っ込んで便を吸い出そうとする母親。医師のいない山村の片隅で住人達は危機を乗り越えた赤ん坊に歓喜の涙を流す。

男手一つで自分を育てた父親の収入源が便所掃除だという理由で、すれちがいざまに偶然触れてしまった父親の衣服のおぞましさに、触れた自身のヒジの肉をナイフで削いでしまう息子。

新築マンションに越してきた当日、台所でゴキブリの姿を見て翌日賃貸契約を解約した独身女性。

雨あがり、片手に持った傘の先を後ろに大きく振りながら後方の通行者を威嚇し続ける人。

自分はどうなってもいいからと身を投げ出す人と、他人などどうでもいいから、とにかく自分と考える人。

いついかなる場合でも、いついかなる場面でも、とにかく自分、とにかく自分だけ。という考えの人は、必ず自分自身に復讐されるという、誠に損な役回りを選んだ人だ。

彼女が帰宅して台所に入る数秒前に、タッチの差でゴキブリが排気口の中に消えていた場合、彼女にとっての真実は、ここは清潔な新築マンションであって、ゴキブリなど存在しえない、というもの。 “増殖する過剰防衛 / ひとつだけの物の見方 / 損する生き方” の続きを読む

悩み多き年頃 / 老いも若きも悩みましょう / 答えよりプロセス

Title : 今日、カサ持ってくかどうか悩まないでいたら、カサが怒って手の届かないとこ行っちゃったんだけど、どうしたいいいかな

★ ベストアンサーに選ばれたカサからの答え

今度からは、キチンと悩んでネ

 

 

中高生の学生諸君に向かって、よくこういう言葉が投げかけられる。

「悩み多き年頃だもんネェ~ッ!(笑)」

言われた本人、周囲の人々、みな一様に納得。ウムウム。青春ド真ん中だもんねぇ~。と。

しかし実際のところ、現実は全く違う、とまでは言わないが、かなり違う。カレーライスと言えばルーが多い、ライスカレーと言えばライスが多い、といったフィーリングを持ったりするが、それと同じで現実は違っている。

カレーライスもライスカレーも、カレーとライスの比率の差で呼び方が変わるわけではない。

ちょっと考えれば、たちまち10代も中年も壮年も悩み多き年頃であることが分かる。いやむしろ、チョンガーである独身者である10代より数多くの責任をしょわされる大人達の方がずっと悩みが多いに決まっている。

では、何故わざわざ青少年諸君に向かって「悩み多き年頃」などと言葉を投げかけるのだろうか。

 

青少年は多き悩みの一つ一つに対して真摯(しんし)に、ひたむきに、おろそかにせず、ないがしろにせず、真っ向からガップリ四つに組んで取り組みなさい、という軽口アイサツに見せかけた重低音激励メッセージなのである。

ひとつひとつの悩み事に、最後の最後まで答えが見出せなかったとしても、重要なことは、答えが見つかったことではない。宝探しとはワケが違う。

ああでもない、こうでもない、と堂々巡りしつつも悩み苦しんだプロセス、その積み重ねが本物の大人を創り上げるのである。

自分はすぐにクヨクヨする性格だ。そんなふうに生まれついた。

と言って、ただ気分的にクヨクヨしているだけ。

よりも、

どうしたらクヨクヨしないで、心を前向きに奮い立たせることが出来るだろう、と考えに考え、その結果、ついに打開策が見いだせずに結局いつも通りクヨクヨしてしまう。マジメに考えた分だけ、一層ガッカリしてしまいクヨクヨしてしまう。

何だ、結果は同じか。結局クヨクヨか。

そうかもしれない。

しかし、力強いクヨクヨはやがて、成長と共に、ある日、突然に目からウロコ、大化けすることがある。

力なき、ひ弱なクヨクヨは、常に消え入りそうな自分を持て余す。

 

大人は自分の身にふりかかる多数の悩み、そのひとつひとつに向き合わない。向き合えない。

時間がないし、疲れているし、責任という明日が待ちかまえている。

だから、最重要な悩み事だけに取り組みを絞る。

しかしそれも、

若い時分に悩みぬいた日々あればこその結果。成果。

つまり、

何が最重要で、何が黙殺かの選択に、

間違いがない、ということだ。

自分だけは大丈夫 / 自分だけは特別 / 仮想自我

Title : どしたらいいの?

 

 

「自分だけは大丈夫だと思ってるんで(笑)」

よく耳にする言葉。耳慣れてしまう程、近年まかり通る。

根拠が全くない。発言する本人も、それを聞く周囲も、それはそういうものだと知っている。

論理的な、理詰めで物事を考える人間は、そういった人達の発言を冗談で言っている、と捉える。しかし、それがどうやら本気だと知って呆れかえる。それはそうだ。そんな人間はアベンジャーズにだって存在しないのだから。

 

何故、自分だけは違うと本気で思えてしまえるのか。

向こう見ずという言葉が在る。例えば、向こう岸が火の海。向こうを見なければ泳いで向こう岸に行ってしまえる。普通は見るので、そんな愚かなことをする人はいないはずなのだが。

向こう岸が火の海。その中で逃げ遅れ助けを求めている我が子がいる。死を覚悟で向こう岸に向かう親。これは同じ自殺行為でも向こう見ずには該当しない。全てを論理的に理解した上で、起こりうる結末を考えるからこそ、自分の命と引き換えにしても良い、という明確な決意の結果の行動なのだから。

無鉄砲もそう。銃弾飛び交う戦場に、鉄砲も持たずに飛び出してゆき、銃を持つ相手に飛びかかる。

 

何故、自分だけは大丈夫だと思えるのか。

自分が自分自身の存在を認識していないからである。

カニは自分が魚とは全く違う生き物だと認識していない。自分がどういう生き物なのかも分かっていない。ただ生まれつきの本能に従って行動しているだけだ。

その日に釣り上げられた魚は、イケスの中で、その日エサなど絶対に食べない。自身が異常事態下にいることを察知しているからだ。

ところがカニは違う。イケスの中で魚を襲って食べている。つまり、自身が今、危険な異常事態下にいることを理解出来ていない。

カニには向こう見ず無鉄砲といった言葉は適用されないし、該当もしない。

 

「自分だけは大丈夫」と思い、実際に向こう見ずな行動がとれてしまう人は一体どうしてそうなったのか。

 

何も考えないでいられる環境で育った。

自分が何ひとつモノゴトを考えなくても、何一つ問題なくやっていける環境下で育ったのだ。

親が全部やってくれる。或いは、誰かが自分の代わりに物事を決めてくれる。その状況に全く疑いを持たず育つ。楽でいいやと思う。

TVのバラエティー番組もすべからく手取り足取り、幼稚園児に対するような番組作りをしている。何も考えずに、ただボ~ッと観ているだけで良いように作られている。

質問形式でよく問題が番組内で出される。質問された側は、ちゃんと考えたと言うが、実際は、考えたのではなく、その答えを自分が知っているかどうか自分に対して確認しただけに過ぎない。

「どうしてこの人は、そうしたかったのでしょーか」

「そーしたかったから(笑)」

ウケ狙いが全ての現代日本において、このようなオチャラケ発言はバカにされることもなく、日常生活上、スンナリ受け入れられる。ところが職場では当然のことながら全く通用しない。怒られてしまう。その結果、ただそれだけのことで会社を辞めてしまう。

つまり、ありのままの自分をさらしても大丈夫。どんな相手に、どんな場所でさらしても問題ない。何も不都合など生じない。と本気で考えていた人の敗北だ。

自分だけは大丈夫。いや、違った。全然大丈夫ではなかった。

一度だけの経験ではなかった。自分だけは大丈夫なはずが、何度やっても、何百回やっても大丈夫ではなかった。却下された。全否定された。誰も、良きに計らってくれない。

自信を失くす。どこで間違えた?。おかしい。こんなの有り得ない。どこでなら問題ない?。どこなら平気でいられる?。

買い物症候群。お客様の自分は、どの店舗でも神様扱いされる。

ゲーム中毒。ゲームの中では自分は最強の戦士。

引きこもり。部屋の中では外敵は存在せず、自分だけが王様。

 

沼。底なし沼。苦痛もなく、自分らしく沈んでゆくのなら、それがいい。そんな思いは、そんな教訓は、自滅への最短距離だというのに。

自分が作った危険ルール / 自傷行為 / 心のSOS

Title : 老人と海〈ヘミングネコ〉

 

“ もったいない ” は、確かに日本人古来からの通念。にもかかわらず、相変わらずの膨大な食品廃棄量。

多めに買って余っちゃったぁ~。

余り物には福があるはずなのに全面廃棄の残念さ。それは、

目に余る。と言える。余りにヒドくて見てはいられない程だ、の意味。

手に余る。とも言える。あまりにスゴくて手に負えない、こちらの能力では対応しきれない、という意味。

身に余る。なんていうのもある。目に余る、や、手に余る、とは違って良い意味で使われる。

「抜擢してもらって身に余る光栄です!」だとか、

「殿、もったいなくも、ありがたい、身に余るお言葉でござる!」などと使う。

しかし、昨今では、少し違うニュアンスで使われることが多くなってきたように思われる。

身に余る業務内容で手に余る。皆そうなんじゃないの?。職場の連中の大変さ、目に余るな」

などと、負のニュアンス3兄弟が完成しつつある感は否めない。

 

ところで、現代ストレス社会の中では、

自分自身による、自分自身のための、自分自身に対する全面的拒否権の発動がアチコチで取り沙汰されている。

食事してはならない。食べても消化してはならない。吐き出さなければならないルール。自分自身が、自分自身の価値観で築き上げた世界の中でのみ通用するオキテ。ルール。

カロリーに対する全面的拒否権の発動…。

誰からも強制されたわけではなく、他人から誉めてもらいたいがためのルール。やせて可愛くなったネ、と。

リストカットも過食症も拒食症も、根は同じ。共通点は全面的拒否権の発動。しかも24時間の厳戒態勢が敷かれる。

誰に強制されたわけでもなく、本人が自分自身に対してこれを発動する。

自分はダメな人間だ、また失敗した、ヘマをした。許せない。罰を与えなければならない。リストカッターは自分のような人間は幸せになどなってはならないのだと、幸福に対し全面的拒否権を発動する。

拒否権を発動しないでいる状態には到底ガマンなど出来ない。自分では、自分の厳戒態勢が普通ではないことを理解していても、決してやめることは出来ない。

絶対に片づけてはならない。ゴミ屋敷の中での安堵。

決して開封されない買い物袋の山。売りに出すことも思いつかず、翌日には再びショッピングに出かける。決してMONEYを放出せず、蓄えにまわすことなど不可能だ。欲しがらない行為に対し、全面的拒否権を発動する。

当の本人も、相談された周囲の人たちにとっても、目に余る手に余る身に余る行為。それは常識を用いての対処が困難な精神世界の領域だからだ。

手に負えない責任を負えない

目に余る手に余る余り物。社会の価格維持のために膨大廃棄。捨てられる。

 

全面拒否権を発動する人達も、やはり社会のお荷物として黙殺されることが多い。 “自分が作った危険ルール / 自傷行為 / 心のSOS” の続きを読む