参加だけでは無意味? / 感動の仕方にも流行りがある

Title : 立ち尽くす人

 

 

日本で初めて開催された東京オリンピック。以降、“ オリンピックは参加することに意義がある ” というキャッチフレーズが日本社会に多大な説得力を持ち浸透した時期があった。

今は死語だ。口にするのもタブー感あり。誰も賛同しない。共感しない。成績が悪ければ無意味。期待を裏切る選手は残念な人。

再び日本でオリンピックが開催される。前回開催時より僅かな歳月しか流れていないはず…なのだが…。

人の価値観は容易く変わる。僅か1世代をまたぐこともなく。良い方に変わるべきものであって欲しいと願うは共通。しかしながら、残念ながら、悪くなっていると感じる人の方が断然多い。それを許すのは脆弱な社会機構。

まず最初にいい加減な社会機構が人を疲弊させ気力を奪う。人はいい加減な社会機構に容易く慣れ、やがて道を失い享楽的な、刹那的な快楽に身を委ね眠りにつく。

何も考えないように心がけながら。

それもやがて慣れる。やり過ごす時間を、やり過ごせるようになる。どうしても出来ない人は壊れかけ、或いは壊れる。

手負いのケモノが一番恐ろしい。そんなことにさえ関心を持たず無防備な日常が続く。

 

そしてある日突然、何かが唐突に起きる。

 

故永六輔氏に捧ぐ

Title : 像さん象さん、どうしたの?

 

 

TV局関係者で、近頃は本当の意味での社会ご意見番たる重鎮が居なくなった、人材不足は否めない、と嘆く方々がいる。まさしくその通り。

TV創世期からその存在に心血を注いだ一人、故永六輔氏。彼こそミスターTVであり、昭和TV史そのものであった。彼こそが、本当の意味での社会ご意見番だったと思うし、重鎮を絵に描いたような人だった。

彼は視聴者に決して迎合せず、代わりに、たとえ嫌われようとも人々を正しい世界へ導こうと必死だった。

晩年、彼はTV業界に失望しその世界を去った。

重鎮が居なくなったのではない気がする。社会ご意見番たる重鎮が居なくなったのではない気がする。

TVがシャットアウトしたのではないか。