悲しすぎるから / 窓 / 人を試す歌

Title : まだ子供のお花だよ

 

 

 

歌謡曲とは不思議なものだ。人々の共感を呼べば呼ぶ程

その楽曲は多大な支持を得ていわゆる大ヒットとなる。

至極当然の結果、そこには何の違和感もない。

ところが、ここに

非常に奇妙で不可解な楽曲がある。

この楽曲は、間違いなく多くの人々の共感を呼ぶ。

多くの人々の心に入り込んでくる。

誰もが一度や二度は経験したことがあるはずの

エピソードが切々と綴られてゆく。

その曲中場面は、あたかも舞台劇を見るかのように

聴く人々の脳裏をかすめてゆく。

まるで、聴く人々ひとりひとりの過去を

再び舞い上がらせてしまう追憶のメリーゴーランドだ。

 

窓。

 

この曲は美しくも悲しい旋律を持ち、

一度聴いたら忘れないであろう覚えやすいメロディーに終始する。

にもかかわらず、この曲はいつの時代も

人々の前から必ず忽然 (こつぜん) と姿を消してしまう。

キラ星の如くに生まれては消えてゆく歌謡曲の中に紛れ込み、

手慣れてでもいるかのように消えて無くなってしまう。

何故か。

哀し過ぎるからだ。本当の意味で悲し過ぎるからだ。

決して報われることのない深い悲しみが聴く人々の心を揺さぶり、

リスナーはその重みに耐えきれずに

この楽曲を葬り去ってしまう。

それほどこの楽曲には本物の悲しみがある。

 

イジメは子供の世界にも大人の世界にも存在する。

イジメの様に意図的な個人攻撃にはまだ対処法がある。

だが、この楽曲のエピソードの様な

不作為の行為に対しては対処法がない。

その悲しさと苦しさは、私達皆が知っている。

つまり共感を呼ぶ。呼ぶからこそ、つらい。

人を試す歌なのかもしれない。

 

自身が幸福を手に入れ、うかつな言動や怠惰怠慢で隙を見せ、

手に入れたはずの幸せが手の平からこぼれ落ちてしまわぬよう、

自戒と戒めの意味でこの曲を聴き続ける場合、

この曲は空恐ろしい程の力を持つ。つまり最大の味方となってくれるだろう。

 

検索をかけてみたところ、流石はGoogle、

YahooとYouTube、同名の楽曲が多い中、

後藤啓子が歌っているものがアップされていた。

今現在、哀しみのさ中にある人は視聴しないことを勧める。

慰めのための楽曲ではない。手に入れた幸福を見張るための楽曲である。

 

 

◆窓 (犬丸秀 / 作詞 作曲)

 

あなたと あの人の 幸せの裏庭で 懸命に咲いていた 花があったの

ゆっくりと流れる 夢のようなロマンスを

目を凝らし 目立たずに 見守っていたの

あたためた恋心 庭のスズメ達が 聞きつけて 悲しんで 風に知らせた

風達も涙ぐみ あの窓を叩いた

窓 窓 窓 窓 窓 窓 窓 窓……

 

あなたの あの窓の向こう側から聴こえる 喜びの あの歌は

とても大きくなっていた

気づくと二人は 庭を通り過ぎて あの人は無意識に 私を踏んでった

蹴散らされて くしゃくしゃになった私の愛は

咲くことが出来ずに 窓を見上げた

あの窓は 変わらずに 曇りさえしなかった

窓窓窓窓 窓窓窓窓……

 

吹き抜ける時間は 私を見放して 虫達を引き寄せた 花は枯れてた

横たえた この身に 話しかける草もなく

干からびた花びらは もうすぐ落ちる

蹴散らされて くしゃくしゃになった私の愛は

咲くことが出来ずに 窓を見上げた

あの窓は変わらずに曇りさえしなかった

窓窓窓 窓窓窓 窓窓窓………

 

 

 

報われることのない人の想い。

恋愛に限らず、それは数限りなく

行き合う人と人のもつれ合いの中、日々誰しもが経験する。

それを呟く人も居れば飲みこむ人もいる。叫ぶ人も泣く人も。

 

人は花ではない。話せるのだし何処へでも行ける。

この楽曲はその素晴らしさを改めて今、私達に教えてくれる。