言わぬが花よ、で自分探し

Title : 青い墨のバヤイ、嫌いっちゅうことなんだなコレが

 

 

実際、現実に、自分がかかわる人達を指し、知人友人にAは好きBは嫌い、と話すのは分かる。何らかの迷惑を被っている、癇に障る、虫が好かない。で、結論は出来ることならBなんぞは別の何処かへ行って欲しい。

世界中どこにでもある普通の感情。

現実ではなく、非現実で、視聴するドラマや映画、CDの歌手や役者、はたまたタレントに対してAは好きBは嫌い、と話すのも分かる。観ていて聞いていて不愉快。目障り。人気落ちればいいのに。

世界中どこにでもある普通の感情。

何故いちいち第三者に自分はBだのCが嫌いだと伝えなければならないのか。黙っていてもいいではないか。

とはいかない。黙っていられない。何故なら強い感情で抑えるのには一苦労を必要とするから。言わぬは身体に毒。

しかし、ミュージシャンや俳優、自分と実際に会ったり話したりすることのない相手。なのに、実際係わる人と同等の嫌悪感を示す。直接被害を被るわけでもないのに。何故。

私は何が好きで何が嫌い、な人間だ。

人間は生まれつき自分がどういう人間なのか第三者に理解してもらいたいという強い欲望を持っている。自己主張ともいう。一番シンプルで、初歩的な自己主張宣言なのだ、好き嫌い発言は。だから幼児にもそれは出来る。

相手が人とは限らない。浜辺に行けば、ここは風が強くて嫌い、あっちは風よけがあって好き、という具合。ただし、これは人としての性格性質、主義主張とは関係のない単なる生物反応。

要するに何処へ行こうとも、独りで部屋にこもりフトンひっかぶって目を閉じても、何が好き何が嫌い、からは絶対に逃げられない。

思い出される記憶にもそれは存在している。好きだった、嫌いだった、あれやらこれやら。

生きている限り自己主張は続く。好きか嫌いかを決定。人に伝えて終わりだと自己主張は苦痛の存在でしかない。

大抵の場合、続きがある。嫌いなら考えないようにする。無視、切り捨て、で解決する。決着させる。嫌いな気持ちが追ってくる場合もあるし、自ら好き好んで監視し一層嫌いなジレンマに浸り続ける場合もある。

好きな人 (物) をどうすれば嫌いになれるか。嫌いな人をどうすれば好きになれるか。をシュミレーションしたことがあるだろうか。

試みた結果、何かしらの答えが出る。その答えこそが、自分が宣言した自己主張のベストアンサーなのだ。

柑橘類 (かんきつるい)が嫌い。すっぱさゼロになれば好きになれるかも。スイカとかメロンは酸っぱさゼロで大好物だからね。

酸っぱくない柑橘類は存在しないので、酸っぱさがなくなったミカンは最早ミカンではない別の何か。つまりはミカンを好きになるのは無理。

つまり、生まれつきの食物嗜好、それは遺伝。私という人間の自己主張というよりはDNAの情報公開。主義主張とはあまり関係ない。生まれつきの性質公開。自分が生きながら意識して作り上げてゆくのが性格。

だから、好き嫌いで性格が分かってしまう訳。