死に物狂いの顔 / ボクが釣りから学んだこと

Title : 五月の遊泳

 

 

ボクはGW期間中とGW終了後2週間は絶対に釣り座に行かないことにしている。理由は単純明快、満足出来る魚が釣れないから。

魚の学習能力は非常に高い。経験で言うと同じやり方は3度までしか通用しない。頭のいい魚種には2回。これホントの話。

釣りのやり方とは、凄くその魚種が釣れるポイント、釣り仕掛け、釣り餌、何でもかんでも。

魚の学習は当然。魚達には種の存続がかかっている。命がけ。このことを肝に銘じていない人は釣果がとっても低い。

 

連休中の釣りザンマイ夢見て、子供と釣りに行くのを心待ちにしていたお父さん。大物を絶対に釣ってやる!と意気込み、お父さんと釣りに行くのを心待ちにしていた子供。

釣れることで有名な有料釣り施設は早朝から長蛇の列。2時間待ちなどザラ。

やっと釣り座で釣り場を確保しても、大物が釣れる釣れない、小物が釣れる釣れないは運次第。

だって、ベテランでさえ大警戒モードに入っている魚を挙げるのは至難。連休中の入場者釣果表を見ると、普段より極端に数字が低い。毎年そう。

それでも釣った?。でしょうね。それってかなりプロ中のプロか、強運。強運で上げた場合、その先半年は大物がほとんど釣れないことが多い。だって運を使い切っちゃったから。これもホントの話。多くのベテラン釣り師が苦笑いしながら賛同する。

釣り座A。夜活動を始めるカサゴやアナゴ。平日夜でも彼らは21時前には95%釣れない。何故か。

釣り座Aの無料駐車場は21時に閉まる。だから大半の釣り人は21時前には帰る。魚は時間を学習している。

自転車で現れたボク。帰る人達とすれ違いながら釣り座へ。

21時10分、大抵大物が挙がる。魚は空腹をこらえ21時を待っていた。

どうしてボクの仕掛けは学習していないか。

毎回、全く餌も仕掛けも違う。

珍味の裂きイカをゴカイと一緒に針につけたりする。つまり、他の釣り人の仕掛けエサともかぶらない。

 

それでもある日を境にパタッと釣れなくなる。

そのポイントに居ついている魚を全て釣り切ってしまったことを意味している。

必ず予告がある。

例えばカサゴなら、突然赤ちゃんクラスしか釣れなくなる。大物がいる時、赤ちゃんに出番はない。赤ちゃんが釣れるということは、大物がいないことを意味している。

当然、赤ちゃんは逃がす。それを数回繰り返すと、赤ちゃんでさえ学習してしまい、遂には何も釣れなくなる。

 

GWや正月、魚達は無数の仕掛けが海に投げ込まれることを学習しまくっている。連休が終了しても、釣り座の海中は相当に栄養過多になっていて汚染されている。魚も寄り付かない。だから釣れない。

 

こういった話、実は釣りだけに留まらない。

何度も人に傷つけられれば人嫌いになる。人に寄り付かなくなる。1度でも嫌な思いをさせられたなら、その店には2度と入らない。場所だってそう。

この曜日、この時間なら絶対にアノ嫌な奴はいない、来ない。確信出来ればそこへ行けるし、落ち着いてくつろぐことも出来る。

 

釣り座で3人の男子大学生が釣りをしていた。ビギナーはアリアリで5時間、何も釣れず帰り支度。1人が笑いながら仲間に向かってこう言った。

「魚より人間の方が頭がいいのに、その魚に笑われてるオレ達って、どうなんだ?」

 

ナメる。見切る。おごる。相手が死に物狂いだと気づきもしない。

 

命を持つ者は、それが魚だろうとケモノだろうと、例外なく死に物狂いだ。

その命をオチャラケながら簡単に奪えると常日頃思っている。

 

危険だ。誰が危険?。キミだよ。キミの物の考え方だよ。その姿勢だよ。

キミ自身、キミと係わる人、みんな危険だよ。

何の危険?。

幸せになれない危険、成功しない危険、落ち込んで挫折する危険、投げやりになって自分を粗末に扱う危険、とにかく人生のありとあらゆる要素が危険なものになってしまう。

死に物狂いに縁遠かったので、相手がそうだなんて夢にも思いつかないんだよ。死に物狂いに縁がなかったってことは、恵まれていたってこと。満たされていてラッキーだったってこと。

それが普通だと無意識に思っているから、自分の身の上や環境に感謝もしないし、それどころか投げやりに不満たらたら。

釣りを始めた頃、ウッカリしていて鋭い針がボクの親指の腹を貫通した。

針には返しがついている。つまり引っこ抜けない。引き抜くには肉を割くしかない。

鮮血が溢れ続けた。出血を押さえながら脳裏を駆け巡った考えは、

これを魚にするのだ。

 

釣り座に立つなら、本気で釣る。真剣勝負をする。

「兄ちゃん、顔恐いよ。遊びなんだから楽しんでやんなきゃ」

と言われた。よく分かる。でも全く受け入れない。

偉そうなことを言う気はさらさらない。

釣りをするからには釣れて欲しい。マグレは楽しくない。学習能力のない赤ちゃんは釣りたくない。大きいのを釣りたいだけ。それも何度も。

その目的を成就するためには、遊び半分では無理。

 

世の中何でもそう。どんなことでもそう。

青空の下、澄み渡る海。でも魚には仕掛けの糸、針、丸見え。

目の前を大きなワタリガニが泳いで横切ってゆく。慌てて仕掛けを行先に向って投げた。貪欲なカニのくせに、浮いているエサを通過時、うっとうしそうに払いのけ泳ぎ去った。

土砂降りの雨の中、自分の腕の長さあるスズキを1時間で12尾釣ったことがある。これを入れ食い状態という。

海は荒れおびただしい水泡のキラメキで糸も針もスズキには見えない。

エサもだろうって?。それは見える。何故?。それが見えなければ種は滅ぶから。

何故次々に上がる?、釣れる?。荒れた海の中、釣られて暴れる仲間の姿が荒波に揉まれているようにしか見えないから。

 

魚をだます、油断させる、あざむく、それが釣り。

 

遊び半分は考えが浅い。だからすぐ見破られる。要するに、チョロイだの楽勝だのという姿勢で人生の成功は手に入らないと知った。まして倖せなど夢のまた夢だと釣りで思い知らされた。

魚は頭がいい、かどうかボクには分からない。魚は死に物狂いだ、これだけは本当だと言い切れる。命がけで泳いでいることに疑いの余地などない。

 

だから、軽いノリで成功しちゃったよ、という人の言葉は絶対に信じない。

人を本気にさせるようなことは絶対言わない。人が遊び気分になるように仕向けるのが成功者。

成功者のオチャラケ顔のしたにある本当の顔、ボクの見慣れた、

死に物狂いの顔。