ビールとアンパンとオハギ / 見えるものしか信じない / 遊び心がつちかうもの

Title : 「ヒャ~熱い!。蜃気楼でもいいからオアシス見せてくれ~!」

 

 

海外ドラマや映画を観ていると、ビールの小瓶を片手持ちでラッパ飲みしている人達が非常に多い。若者に限らず男女を問わず。

海外のクールな飲み方を日本の若者達が真似ようとしないのは何故か。まず、いわゆる従来から在るビール瓶は重く片手でなど持てたものではない。最後のひとくち、ふたくちの量になればやすやすとラッパ飲みも可能なわけであるが。

というわけで両手で重いビール瓶を持ち、拝むようにして、或いは真剣白羽取りのポーズで一気飲みするしかなく、それは既に当初思い描いていたイケてる自分、クールな自分、トレンディーなワタシとは程遠いのである。

なわけで、日本でも海外よろしく片手で軽々とグイ飲み出来る小瓶が流通するようになって久しい。別にカッコ良さをよそわなくても、人目のない自分の部屋なら小瓶のラッパ飲みは男ならずとも面倒はぶいてやってしまっていることだろうし。

だが、やはり。ビールは泡を見ながら飲まないと気分が全く出ない。旨く感じない。と思う人は男女たくさん居るわけで、そうなると周囲に人が居ようが居まいが、わざわざコップにビールをあけ、吹きあがる泡を眺めながら飲む、飲みたいということになる。

ドイツの人々の様に重いジョッキを片手で振りかざして飲む、というのは握力アップ、手首のスナップをきかせたい野球のピッチャーなら良いかもしれないが、くつろぎタイムに飲みたいビールを筋トレタイムにしたい人はあまりいない。

ので、たくさん量を飲む人でもジョッキより通常サイズのコップで何杯も、ということになる。

泡を見ながら飲みたい人は日本人に大変多い様な気もする。水の泡、というコトワザもあり、ビールの泡をヒゲに見立てて鼻の下にワザとつけて面白がる人もいるわけだから、おそらく日本人はひと泡吹かせることを好む人種なのかもしれない。

ビール瓶はこげ茶色や黒色のものが多く、中身が見えないのが普通。透明な瓶では中の液体を違うものに想像させる恐れがあるからであろう。

中身が見えないと、味だけでビールかどうか確認するという作業が要求され、ビール本来の味覚が半減してしまうと考える人は多い。

やはり、ビールかどうかを確認するには、まず舌より目、ということなのだろう。

粒あんのアンパン、こしあんのアンパン、いずれも食べる時は中身のアンコ確認は舌だけに任せている、という人がほとんど。アンパンを半分に割って、見えているアンコを眺めながらでないと粒あんやこしあんを選び分けた意味がない、などと思う人はあまりいない。

だが、日本にはオハギというものが在る。これは、いやがおうでも最後のヒトクチまで、今自分が食べているのは粒あんなのかこしあんなのかを提示し続ける極めて良心的な食べ物と言え。

何が入っているのか、値段以上の物か以下の物か、一年最初の運試し。ゆえに在るのが福袋。それが今では中身が分かっているでっち上げの福袋。運試しでもないのなら新年の福袋など存在する意味さえないというのに。

消滅した遊び心に取って変わったものは超現実的な物質欲。

お見合い写真はお見合い写真だけでは終わらない。昔ならいざ知らず、今では必ず面談が在る。当然だ。一生を決めることは五感全てで判断しなければならないのだから。

目で耳で鼻で口で確かめる。

それだけではない。目に見えない物は心の目で確かめる。空想力、想像力、推察して確かめる。

それを可能にし、出来る限りの正解に近づける能力を培うのは遊び心、心のゆとり。要するに、騙される人は目に見えない物の判別が不得手。

遊び心とは損得抜きの試し合い。知っているのに知らぬふり、だってそれがやさしさだから、といった処世術にまで高めていける遊び心という名の人生訓。

せちがらいものの考え方、絶対損してなるものかの殺伐とした徹底現実主義、見える物しか信じないという思想は、結局のところ、

振り返れば大損だけの人生なのかもしれない。